もやもやリオナ、再び
「アリアーゼ殿と初めて会ったのは、八年前になるか」
エルクードが、懐かしそうに目を細めた。
「会談で、グランベルの王宮に招かれたときだ。案内に立ったのが、少女のような騎士でね」
「まあ。ずいぶん昔の話ですこと」
アリアーゼは静かに微笑んだ。
「あのときすでに、アリアーゼ殿は、いずれ立派なお嫁さんになるのだと息巻いていたよ。まあ、シュレム殿と婚約を結んだ直後だったけれどね」
リオナは手の平で包んだ湯呑に視線を落とした。
八年前といえば、リオナ自身はまだ神殿で、祈りの言葉を覚えていたころだ。
その頃、アリアーゼ様は十六歳。婚約者がいて、これからお嫁さんになるのだと信じていて、それを初対面の他国の王子に話していた。
この人は、そのアリアーゼ様を知っている。
エルクードは言葉を続けた。
「それきりかと思えば、その後も何かと顔を合わせることになった」
エルクードが指を折る。
「アリアーゼ殿は、十八歳のころには騎士団長まで上り詰めていたからね。会談、式典、国境の視察。わたしが数えているだけでも、片手は超えるね」
リオナは、膝の上で指を組んだ。
エルクード殿下はそんなにも前からアリアーゼ様と交流があった。
自分がアリアーゼ様と過ごしたのは、まだ三ヶ月だ。
「そういえば」
エルクードが、にやりと笑った。
「三度目の顔合わせの時だったか。手合わせを願って、一本取らせてもらったことがあるね」
「あら」
アリアーゼの眉が、ぴくりと動いた。
「あのときは油断しておりましたのよ」
「一本は一本だよ」
「殿下が、いきなり足元の砂を蹴り上げたからですわ」
「戦場では誰も待ってくれない。そう教えてくれたのは、あなただろう」
二人が、声を上げて笑った。
リオナは、湯呑みの中を見つめていた。
こんなふうに笑うアリアーゼを、はじめて見た気がした。
◇
「さて、アリアーゼ殿」
ひとしきり笑ったあと、エルクードがあらためて姿勢を正した。
「まだ、結婚のお相手は決まっていないのだろう?」
「ええ! 今はまだ、修業中の身ですもの!」
「そうか」
エルクードは頷いて、それから、なんでもないことのように言った。
「じゃあ、そのお相手にわたしが立候補してもいいのかな?」
かたん、と音がした。リオナの手から滑った湯呑みが、テーブルの上で倒れかけて、かろうじて止まる。
「あら。ご立派な方が名乗り出てくださって光栄ですわ。でも、わたくしはまだ修業中の身ですの。理想のお嫁さんになるために、今はだれの求婚も受けている暇はございませんのよ?」
アリアーゼは、いつもと変わらぬ口調で答えた。
「ふふ。じゃあ、その修業とやらが終わるまで、勝手に待たせてもらうよ。かまわないだろう?」
エルクードはそう言って、アリアーゼをじっと見つめた。
アリアーゼもエルクードを見返した。二人の間に沈黙が落ちた。
やがて、アリアーゼは静かに口を開いた。
「ええ、構いませんわ。ご自由になさって」
リオナは二人のやり取りを黙って聞いていた。口を挟むことなど、できるはずもない。
リオナはサリエナにちらりと視線を向けた。サリエナは背筋を伸ばし、無表情のまま前を向いていた。
気がつけば、もう昼時だった。
「どうせですから、お昼でも召し上がっていかれます?」
アリアーゼがそう言い出したとき、リオナは心の中で悲鳴を上げた。
王子様に出せるものなど、この家にはない。焼いたばかりのパンと、錦糸卵と、村でわけてもらった野菜のスープくらいのものだ。
「では、いただこうかな」
エルクードは、即答した。
◇
結論から言うと、食事の内容について心配する必要はまったくなかった。
王族にはふさわしくないような質素な食事を、エルクードはおいしそうに食べた。
食事の合間に、エルクードは王族としての苦労や失敗談などを、ユーモアを交えて話してくれた。アリアーゼもリオナも、いつしかその話に引き込まれ、笑い声をあげていた。
思いがけず楽しい時間となり、リオナの緊張もすっかりほぐれていった。
昼食の時間が、穏やかに過ぎていく。
そんな中で、一人だけ会話に加わらず、黙々と食事を続けている人物がいた。
サリエナである。
背筋をぴんと伸ばし、姿勢は美しい。食器の扱いも丁寧で、料理をこぼすことも、音を立てることもない。
ただ、食べる速度だけが異常に速かった。
リオナがエルクードの話に耳を傾け、笑っている間にも、サリエナの皿から料理が消えていく。
気がつけば、皿は空になっていた。それに気づいたリオナが声をかけた。
「……あの、お代わりはいかがですか?」
「いただきます」
サリエナは無表情で即答した。
リオナが料理をよそう。
サリエナは、それを受け取ると、また黙々と食べ始めた。
見る見るうちに料理が減っていく。
リオナがエルクードの話に笑い、ふと手元に視線を戻すと――また、皿が空になっていた。
「……お代わり、いかがですか?」
「いただきます」
またしても即答だった。
リオナは、空になった皿とサリエナの顔を交互に見た。サリエナは無表情のまま、次の料理を待っている。
どうやら、まだまだ食べられるらしい。
「サリエナはよく食べるのだよ」
エルクードが、笑いながら錦糸卵を皿に取った。
「その細い身体のどこにそんなに入るのか聞いたら、食事は別腹だと返された。意味が分からなかったな」
「殿下。お口が過ぎます」
サリエナは変わらない口調で淡々と言った。
「今日は私事だと言っただろう」
言いながら、エルクードは錦糸卵を摘まみ上げた。ふわふわの黄色い糸が、箸の先で揺れる。
「ふむ。この料理は初めて見るな。これは、卵焼き……を刻んだものかな?」
「何かおっしゃりたいことでも?」
アリアーゼはエルクードをじろりと睨んだ。
「いや。卵焼きをわざわざこんなに細かく刻む必要があるのかと思ってね」
「なら、召し上がらなくてよろしいですわ!」
アリアーゼが皿を引き寄せようとする。エルクードが、その手を笑ってかわした。
「いや、そう言わずにいただくよ」
口に運ぶ。ゆっくりと噛んで、飲み込む。
「……うん」
エルクードが頷いた。
「味は悪くないね。だしの加減がいい」
「そうですの?」
アリアーゼが、ぴんと背筋を伸ばした。口元が、隠しきれずにゆるんでいる。
「まあ、当然ですわね。わたくし、毎朝練習しておりますもの」
得意げに胸を張るアリアーゼに、リオナの頬も緩んだ。
今朝のアリアーゼの姿を思い出す。
上手に卵焼きが焼けたと飛び跳ね、それを細かく切り刻んで笑い転げていた。
そのことを知っているのは、自分だけだ。そう思うと、少しだけ、胸のつかえが軽くなった。
「それと、このパンだが」
エルクードが、パンを手に取った。
「これは見事だ。宮廷の晩餐会でも、ここまでのものはそうそう出ない。……これもアリアーゼ殿が?」
「いいえ。それはリオナですわ」
「ほう」
エルクードの視線が、まっすぐにリオナへ向いた。
「見事だ、リオナ殿。これほどのパンは、久しく口にしていない」
「は、はい。えっと、ありがとうございます」
リオナは頭を下げた。
褒められて、嬉しいはずだった。実際、悪い気はしない。けれど、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
顔を上げると、隣のアリアーゼが、我がことのようににこにこしていた。
「リオナのパンは絶品ですのよ。今朝の焼き立てものなんて、わたくし、言葉を失いましたもの」
アリアーゼは弾むような口調で言った。
(――アリアーゼ様、嬉しそう)
自分の焼いたパンが褒められて、アリアーゼ様が喜んでいる。その様子に、リオナの胸は一杯になった。
◇
日が傾きはじめたころ、エルクードとサリエナの二人は腰を上げた。
「今日はありがとう。久しぶりに、腹の底から笑わせてもらったよ」
「お粗末さまでしたわ」
アリアーゼとリオナは戸口まで見送りに出た。坂の下には、供の者と馬車が待っていた。
エルクードが、ふと振り返った。
「アリアーゼ殿。また遊びに来てもいいかい?」
「まあ」
アリアーゼが、目を丸くした。
「ゼリアスの王子様は、そんなにお暇なのかしら?」
「ふふ」
エルクードは、まったく動じなかった。
「時間を作るのは、有能な証明だと思ってほしい。ではまた!」
片手を上げて、坂を下りていく。サリエナが一礼して、その後に続いた。
そのまま二人は振り返ることもなく、馬車に乗って去っていった。
馬車が見えなくなると、アリアーゼは、ふんす、と鼻を鳴らした。
「……ちゃんとした卵焼きを食べさせられなかったのが悔しいですわ。感想も、悪くない、止まりでしたわね」
「アリアーゼ様?」
「見ていらっしゃい、リオナ」
アリアーゼが、ぐっと拳を握った。
「もっともっとお料理の練習をして、次こそはあいつをぎゃふんと言わせてやりますわ!」
リオナは、隣で口を開きかけた。けれど、言葉が出てこなかった。
いいですねとか、頑張りましょうとか、そう言えばいい。いつもならそう言っている。
でも今は、なぜか声が出なかった。
◇
物置小屋の屋根の上に、アッチムが座っていた。膝を抱えて、遠く去っていく馬車を眺めている。
アッチムはその視線を、戸口に立つ二人へ移した。
拳を握って意気込んでいるアリアーゼと、その隣で戸惑うような表情のリオナ。
ぽつり。
アッチムの鼻先に、冷たい雫が落ちてきた。顔を上げると、いつのまにか空は灰色に染まっていた。
「おや?」
アッチムは、目を細めた。
「雲行きが怪しくなってきたっすね」
エルクード殿下のまさかの立候補。リオナさんは内心穏やかではないようで……。
次回、雨降りの日。リオナさんはちょっと元気がありません。




