エルクード殿下
エルクード殿下。
リオナは、その名前を頭の中で二度繰り返した。
ゼリアス王国の、第一王子。
エルクード・フォン・ゼリアス。
この国で知らない者はいない名前だ。
そして、リオナはグランベル王国で暮らしていた時ですら、その名前を耳にしていた。
聡明で、民に気を配り、いずれゼリアス王国の良き王になるだろうと。
その人が、いま、丘の上の家の土間に立っている。エプロンをつけた自分の、三歩先に。
リオナの視線は、さらにその半歩うしろへ動いた。
黒髪を一つに結った、無表情の女性が、伏し目で立っている。
(思い出した。図書館の、司書さんだ)
あのとき、貸出カウンターで声をかけてくれた人だ。古代文字が読めることに驚いて、聖女修行の話を聞いてくれて、頑張ってくださいと言ってくれた。
司書ではなかったのだ、とリオナは悟った。悟った瞬間、背筋がすうっと冷たくなった。
「うふふ。先触れも無しにいらっしゃったのは大目に見て差し上げましょう。せっかくおいでくださったのですから、お茶でもいかが?」
アリアーゼの、まるで近所の人を迎えるような声が響いた。
◇
四人で、テーブルを囲むことになった。
リオナとアリアーゼが並んで座り、向かいにエルクードとサリエナが腰を下ろす。
二人と一匹が暮らすには余裕のある家だが、王子様をお迎えできるような屋敷ではない。王子の膝と、リオナの膝の距離は、両手を広げるほどもなかった。
リオナは湯呑みを配りながら、手が震えないように必死だった。
なぜ王子がここにいるのか。隣にいる女性は何者なのか。自分は何か粗相をしていないか。というより、この人たちの前に出していい茶葉なのか。
リオナは緊張して喉がカラカラになった。
アリアーゼ様は侯爵令嬢であり、グランベル王国の元騎士団長だ。それに比べて、自分はしがない商家の娘であり、紛うことなき平民である。
自分がこんな所に同席して良いものかと考えていると、アリアーゼが口を開いた。
「それで、この国の王子様が、どういったご用件かしら?」
「ふふ」
エルクードが、肩を揺らして笑った。
「堂々と会いに来ればいい。そう伝言を残したのは、あなたではないか。我々の監視に気づいていたんだろう?」
エルクードの言葉に動揺することもなく、アリアーゼはにこりと微笑んだ。
「監視には気づいておりましたけれど。まさか相手がエルクード殿下だとは思いませんでしたわ」
リオナは、湯呑みを取り落としそうになった。
(――え? 監視されてたの? いつから、どこで、誰が???)
隣を見上げるが、アリアーゼは涼しい顔で茶をすすっている。
「もっとも」
アリアーゼは言葉を続けながら湯呑みを置いた。
「リオナに危害を加えるようなら、後悔させてやろうと思っておりましたのよ。まあ、大丈夫そうだったので、逆に護衛として利用させていただきましたわ。図書館ではお世話になりましたわね」
アリアーゼはさらりと言った。
空気が、わずかに張り詰めた。サリエナの視線が動く。エルクードは、笑みを崩さなかった。
「なるほど。リオナというのは、そちらの女性か」
エルクードがリオナに向き直り、背筋を伸ばした。
「はじめまして。ゼリアス王国第一王子、エルクード・フォン・ゼリアスです」
「ひゃい!」
リオナは椅子から跳ね上がりそうになった。
「あ、あの、リオナ・シェストロームです。えっと、その、こ、光栄です」
舌が回らない。王族と口をきいたことなど、生まれてこのかた一度もない。
「そう硬くならないでほしい。今日は私事で来ているのだから」
「は、はい」
ならないでほしいと言われて、ならずに済むものか。
リオナは膝の上で指を組み、それから思い切って口を開いた。
「あの。そちらの女性は……」
「ああ」
エルクードが、うしろの女性を示した。
「これは、わたしの補佐を務めているサリエナ・フォン・エイラノールだ」
「サリエナと申します」
サリエナは抑揚のない声で名乗った。頭を下げる角度まで、測ったように正確だった。
リオナは、何と言えばいいのか分からなかった。
あなたは司書ではなかったのですね、とも、あのとき話したことは全部報告されたのですね、とも、聞けるはずがなかった。
「監視の件は、詫びさせてほしい」
エルクードが、あらためて頭を下げた。
王子が、村の家の食卓で頭を下げている。リオナは息を呑んだ。
「褒められたやり方ではない。それは分かっている。でも、理解してほしいのだよ。あれだけ派手に動かれたら、為政者としては無視するわけにはいかない」
「あら」
アリアーゼが、きょとんと首をかしげた。
「そんなに派手に動いたつもりはございませんけれど?」
エルクードの動きが、一瞬止まった。
「……その言い回し、あなたらしいよ。アリアーゼ殿」
二人のやり取りを聞きながら、リオナは、そっと天井を見上げた。
考えてみれば、目立たないほうがおかしいくらいだったのだ。
盗賊団の砦を一晩で壊滅させ、聖獣を浄化し、暗黒龍を討ち、王都のアンデッド騒ぎを解決し、つい先日は火炎龍を料理した。
この三ヶ月で。花嫁修業として。
リオナは思い返してため息をついた。
エルクードはそんなリオナをちらりと見た後、湯呑みを置いた。
「さて、では本題に入ろう」
笑みはそのままだが、目の色が少し変わった。
「失礼だが、アリアーゼ殿の噂はわたしの耳にも入っている。シュレム殿と婚約を破棄されて、国を出たと」
「ええ、そのとおりですわ」
アリアーゼは、なんでもないことのように頷いた。
「このゼリアス王国に来てくれたのは、嬉しい限りだ。だから率直に聞こう」
エルクードが、まっすぐにアリアーゼを見た。
「我が国に、仕官を希望されているのか?」
リオナは息を止めた。部屋が静かになった。
(え? 仕官? アリアーゼ様が、この国に仕える? アリアーゼ様は優秀だもの。仕官だってきっとできる。だったら、この家を出ていく?)
リオナは、隣に座るアリアーゼを見た。
(――わたしとは、一緒にいられない?)
アリアーゼはふわりと微笑むと口を開いた。
「そんなこと、これっぽっちも考えておりませんわ」
即答だった。
(――ですよね)
リオナは、止めていた息をそっと吐いた。
「……ふむ」
エルクードが、わずかに眉を寄せた。
「では、質問を変えよう。あなたはこのゼリアスに、すでに五度も恩恵をくれた。これは事実だ」
「まあ、五度もですの?」
「ああ。五度だ」
エルクードは指を五本立てて、それから組んだ。
「仕官を望んでいるのでなければ、いったい何をしているのか。それが知りたくて、わたしは今日ここに来たのだよ」
アリアーゼは、ぱっと顔を輝かせた。
リオナは反射的に目をつぶった。
「花嫁修業ですわ!」
その瞬間、エルクードの目が点になった。
「……えっと?」
なんとかそれだけを絞り出した。
◇
「ちょっと待ってくれ」
エルクードが片手を上げた。
「一つ一つ確認しよう。まず盗賊団。三ヶ月ほど前、国境近くの砦にこもっていた盗賊団を、あなたが壊滅させてくれたね?」
「ええ! あの盗賊団は悪さをしますから、懲らしめてやりましたのよ」
リオナはあの日のことを思い出していた。
亡くなった妻の形見を奪われたと泣く商人の前で、アリアーゼは静かに怒っていた。そして、たった一人で盗賊団に乗り込んだのだ。
正義の人、アリアーゼ・フォン・ローレンス。紛れもない事実だ。
エルクードはひとつ頷くと、言葉を続けた。
「では次だ。シオイナ山のフェニックスを浄化してくれたね?」
「最高の卵のためですわ! 最高の卵焼きには、最高の卵が必要でしたの!」
エルクードが頷きかけて、止まった。
「おかげさまで、毎朝二個いただいておりますのよ。ねえ、リオナ」
「……はい」
エルクードの笑顔が引きつった。
「……卵のために、か。では、暗黒龍の討伐は?」
「包丁の試し切りですわ」
「試し切り? 包丁の?」
「新しい包丁がどれほど切れるものか、確かめておきたかったのですわ。おかげで、後々とても役に立ちましたわ」
リオナは、そっとアリアーゼを見た。
あの時、暗黒竜が何か言っていたけれど、言い終わる前に首が飛んだのを思い出した。
エルクードは目を閉じた。こめかみがピクピクと痙攣している。
「……ならば、瘴気の森のアンデッド騒ぎの解決は?」
「お掃除の修業ですわ!」
「お掃除とな……」
「王都の掃除屋さんのお仕事を、見学させていただきましたの。免許皆伝もいただきましたのよ」
エルクードが、額に手を当てた。その隣で、サリエナは無表情のまま、微動だにしない。
「……最後だ。先日の、火炎龍討伐は」
「まな板の性能を、確かめたかったのですわ」
「……それは嘘だよな?」
「嘘つき呼ばわりは心外ですわね! 正真正銘、まな板ですわ!」
アリアーゼが、台所のほうを指さした。
四人の視線が、壁に立てかけられた一枚板に集まる。人の背丈ほどもある、白銀がかった巨大なまな板。角度によって、薄く緑に光る。
エルクードは、しばらくそれを眺めていた。
「……サリエナ」
エルクードはサリエナに向き直った。
サリエナは小さく首を振った。その手には水晶玉が置かれていた。
「ヴェリタスの瞳に反応はございません。殿下」
「そうか」
エルクードが天井を見上げた。長い息を吐く。
「つまり、アリアーゼ殿は本当に」
「花嫁修業をしておりましたの」
「……その、花嫁修業で、我が国は五度救われたと」
「あら、あら」
アリアーゼは、心外だという顔をした。
「救ったつもりはございませんけれど」
リオナは、静かに茶をすすった。
(――ですよね)
◇
エルクードの肩から力が抜けた。そのまま両手で頬杖を付いた。
「いったい、どうして花嫁修業をしているんだい?」
エルクードの声から堅苦しさが消えた。明らかに雰囲気が変わったのがわかった。
「それはもちろん、立派なお嫁さんになるためですわ!」
「誰の?」
「それは、これから決めるのですわ!」
エルクードは頬杖を離すと、額に手を当ててうつむいた。
リオナは、心の中でそっと同情した。
(――そりゃ、そうなりますよ)
ところが。
うつむいたエルクードの肩が、小刻みに震えはじめた。
「くくく……」
「殿下?」
サリエナが声をかける。エルクードの震えが大きくなった。
「くくく……あっはっはっは!」
エルクードが、顔を上げて笑った。天井を仰いで、腹を抱えて、遠慮のかけらもなく笑った。
リオナは目を丸くした。王族というのは、こんなふうに笑うものなのか。
「いや、失礼。失礼した」
目尻を拭いながら、エルクードが息を整える。
「アリアーゼ殿は、昔とちっとも変わっていないな!」
「昔?」
リオナは思わず口を挟んでしまった。
「初めて会ったのは、八年前になるか」
エルクードが、懐かしそうに目を細めた。
王子様、突然の家庭訪問。そして五度の恩恵のほとんどが、花嫁修業のためでした。
次回、王子様とお昼ごはん。錦糸卵、出しちゃいます。




