大切な時間
明るい日差しが、まぶたの裏を白く染めた。
リオナが目を開けると、窓から朝の光が差し込んでいた。鳥の声がする。半月ぶりに聞く、ラカの村の朝の音だった。
隣を見ると、アリアーゼの姿はなかった。
いつものことだ。朝の鍛錬に出ているのだろう。
リオナはアリアーゼが朝の鍛錬に出かけるところを一度も見たことがなかった。同じ寝台で眠っているのに、起きたときにはもういない。
リオナを起こさないよう、気配を消して出ていくのだろう。寝台はこれだけ大きいのに、きしみ一つ立てずに。
何度考えても感心してしまう。
リオナは寝転がったまま天井を見上げると、昨夜のことを思い出していた。
湯殿の湯気と、背中を撫でる手のひらの感触。
そして、何気ない調子で告げられたアリアーゼの一言。
『――例えわたくしが、誰かのお嫁さんになっても』
思い出した途端に胸の奥が、ずきんと痛んだ。
アリアーゼは、ずっとそばにいてほしいと言ってくれた。それは嬉しかった。本当に嬉しかった。
でも、アリアーゼはいずれ、誰かのお嫁さんになるのだろう。そのためにずっと花嫁修業をしてきたのだから。そのとき、今と変わらず一緒にいられるとは思えない。
(そのとき自分は、いったいどうすればいいのだろう)
リオナは、ぶんぶんと頭を振った。
(ううん。今そんなことを考えても仕方がない。朝ごはんの準備をして、アリアーゼ様を迎えよう)
リオナは寝台から、そっと降りた。
◇
リオナはパンを焼く準備を始めた。
粉をあけ、水を少しずつ回してこねる。ひとまとまりになった生地を台に置いて、リオナは棚から麺棒を取り出した。それは、世界樹のまな板を作ってもらったとき、余った材で削ってもらった、あの麺棒だった。
生地に当てて、体重をかける。
握ったところから、手のひらに吸いつくように馴染んだ。力を入れているはずなのに、腕が少しも重くならない。生地が、するすると素直に伸びていく。
この麺棒はすごい、とリオナは思った。
握っていると、自分の魔力が麺棒に流れ込んでいくのが分かる。けれど、吸い取られている感じはしない。むしろ、込めた魔力が増えて返ってくるような手ごたえがあった。
さすが世界樹だ。余り物にしておくには、もったいない。
伸ばした生地をくるくると巻いて、型に詰める。その上に手のひらをかざして、光の魔法をふわりと当てた。
生地が、むくむくと膨らんでいく。普通なら半刻はかかる発酵が、息を三つ吐くうちに終わってしまった。
リオナは満足して頷き、型をオーブンに入れた。
◇
表の戸が開いたのは、ちょうど香ばしい匂いが台所に満ちはじめたころだった。
「ただいま戻りましたわ!」
アリアーゼが、額の汗を手の甲で拭いながら入ってきた。すんすん、と鼻を鳴らして、ぱっと顔を輝かせる。
「まあ! 素敵な匂いですわね!」
「おかえりなさいませ。アリアーゼ様」
リオナはぱたぱたと駆け寄った。
「リオナ。朝ごはん、ありがとう」
アリアーゼは少しだけ身をかがめて、リオナの唇に自分の唇を重ねた。
ちゅっ。
ほんの一瞬だった。いってらっしゃいとおかえりなさいのちゅうは夫婦のたしなみ。だから、練習が必要。アリアーゼがそう言い出してから、おかえりなさいのちゅうは習慣になっていた。
唇を離したアリアーゼの目が、台の上で止まった。粉まみれの麺棒が転がっている。
「あら。あの麺棒、早速使ってらっしゃるのね。使い心地はいかが?」
「すごくいいです」
「そう。よかったですわ! 作ってもらった甲斐がありましたわね!」
嬉しそうに笑って、アリアーゼは湯殿のほうへ歩いていった。
ひとり残されたリオナは、その場に立ち尽くした。
(このちゅうは練習。このちゅうは練習)
何度そう言い聞かせても、頬の熱が引かない。もう数え切れないほどしているのに、いまだに慣れなかった。
◇
焼き上がったパンを切り分けて、ふたりで食卓に着いた。
「いただきます」
「いただきますわ」
同時にひと口かじって、ふたりとも同時に動きが止まった。
外側は薄くぱりっとしていて、中はふわりと柔らかい。噛むほどに、小麦の甘さが口いっぱいに広がっていく。
アリアーゼが、パンを持った手を下ろさないまま、リオナの顔を見た。
リオナも、アリアーゼの顔を見た。
ふたりとも、何も言わずに二口目をかじった。
いつもと同じ粉で、いつもと同じ手順で焼いたはずだった。それなのに、今まで焼いたどのパンとも違う。
さすが、世界樹の麺棒だ。
「……リオナ」
ようやく口を開いたアリアーゼの声が、少し震えていた。
「わたくしも、負けていられませんわ」
◇
朝食を片付けると、アリアーゼはさっそくエプロンの紐を結んだ。
「お料理修業ですわ! 今日は、卵焼きを焼きますわ」
「今日《《も》》、ですね。では、わたしは見てますね」
窓辺には、アッチムが置いていった卵が二つ並んでいる。
リオナは一歩下がって、壁際で腕を組んだ。以前なら真横について、菜箸の角度から火加減まで、いちいち口を出していた。
アリアーゼが片手で卵を割る。殻は落ちない。溶きほぐして、熱した鍋に油を回し、細く流し入れる。じゅう、と音が立った。
巻く。流す。巻く。
三度目で、リオナは腕をほどいていた。
鍋の上で、角のそろった卵焼きがふっくらと湯気を立てている。
「……焼けましたわ」
「焼けましたね」
「焼けましたわ、リオナ! ねえ、これ。見てくださる? すごく上手に焼けたのではなくて?」
振り向いたアリアーゼが、鍋を持ったまま駆け寄ってきた。身をかがめて、リオナの頬に唇を押し当てる。
ちゅっ!
「リオナのおかげですわ!」
「ひゃっ」
リオナは真っ赤になると、頬を押さえて、くるりと背中を向けた。
「お、大げさですから! いちいち、ちゅうはしなくていいですから!」
「だって、嬉しいんですもの。これで、立派なお嫁さんに一歩近づきましたわ!」
その言葉に、リオナの胸はズキンと痛んだ。
アリアーゼは気づいた様子もなく、鍋を抱えたまま、くるくると回っている。
「……そうですね。きっと、り、立派なお嫁さんに……なれ……ますね」
リオナは振り向かずに言った。表情を見られたくなかった。
「いいえ、まだまだですわ! 一度うまく焼けただけですもの。もっともっと練習しないと! リオナ先生、まだまだこれからも、よろしくお願いしますわ!」
アリアーゼの言葉を聞いて、リオナは胸のあたりが、ふっと軽くなった。
リオナが振り返ると、アリアーゼは頭を下げていて、つむじがこちらを向いていた。リオナは小さく笑った。
「アリアーゼ様、お顔を上げてください! 練習は《《いくらでも》》お付き合いしますから!」
「まあ! リオナ、ありがとう!」
そんな二人のやり取りを、窓の外から、赤い髪がひょっこりとのぞいていた。
「ふーん」
アッチムは顎に指を当てて、台所の二人を眺めた。
「あの二人、いい感じ……なんすかね?」
首をかしげて、それきり引っ込んだ。
◇
「さて! いよいよ出番ですわね!」
アリアーゼは、台所の壁に立てかけてあった板を、片手でひょいと下ろした。世界樹のまな板だ。調理台に据えると、台の脚がみしりと鳴った。
「長かったですわ……」
アリアーゼは、まな板の表面をそっと撫でた。
「使うたびに傷んでいくまな板を前に、何度涙を飲んだことか。ようやく、ようやく思い切り包丁をふるえますわ!」
卵焼きが、まな板の中央に置かれた。アリアーゼがオリハルコンの包丁を構える。構えが、完全に剣のそれだった。
「あの、ひと口大に切るだけですからね。ひと口大に」
リオナがおろおろしながら声をかける。アリアーゼの目は完全にすわっていた。
「参りますわ! とりゃああああ!」
とんとんとんとんとんとんとんとんとんとん。
刃が見えなかった。光の筋だけが、まな板の上を右へ左へ往復している。世界樹の板には爪の先ほどの傷もつかず、オリハルコンの刃は少しも鈍らない。止めるものが、何もなかった。
音がやんだ。
まな板の上に、黄色い糸がこんもりと積もっていた。
「……」
「……あら?」
首を傾げるアリアーゼに対して、リオナは呆れたように声をかけた。
「アリアーゼ様。これでは錦糸卵ですね」
「ふええ。きんし、たまご……」
「ひと口大って、言いましたよね」
「い、言われましたわ」
「どうしてこうなったんですか」
「だって、まな板が……いくら叩いても、傷ひとつつきませんのよ。包丁も、少しも鈍りませんの。それが嬉しくて、気持ちよくて、つい」
アリアーゼは困り顔で、黄色い山とリオナの顔を見比べた。
リオナは、こらえきれずに吹き出した。
「な、なぜお笑いになりますの!」
「あはははは。ご、ごめんなさい。だって」
お腹を抱えて笑うリオナにつられて、アリアーゼの口元もむずむずと動いた。やがて、ふたり分の笑い声が台所に響いた。
「大丈夫ですよ。錦糸卵も立派なお料理です。お昼に、パンと一緒にいただきましょうね」
「まあ! それは楽しみですわ!」
リオナは、目尻の涙を拭いながら思った。
この人と、こうして笑い合う時間が愛しい。この時間がずっと続いてほしいな、と。
◇
ひとしきり笑い合った二人が片付けをしていると、表の戸が、どんどんと叩かれた。
「アリアーゼ様ー! お客様だよー!」
村の若い衆の声だった。リオナが濡れた手を拭いているうちに、戸が開いた。
入ってきたのは、リオナが見たことがない若い男だった。
すらりと背が高く、旅装ではあるが仕立てがいい。上着の襟元に細かな刺繍が入っていて、腰には飾り気のない、けれど一目で上等と分かる剣を佩いている。人好きのする顔立ちで、口元にはやわらかな笑みが浮かんでいた。
誰だろう、とリオナが首をかしげていると、続いてもう一人入ってきた。
黒髪を一つに結った、若い女性だった。表情がまるで動かない。背筋をまっすぐに伸ばし、男の半歩うしろに控えている。
(あれ? この女の人、どこかで見たことがある)
リオナは記憶を辿ろうとした。
「んじゃ、おいらは忙しいから、これで!」
案内してきた若い衆はそれだけ言って、さっさと坂を下りていった。
男が、台所の奥にいるアリアーゼに目を向けた。笑みが深くなる。
「やあ、アリアーゼ殿。久しぶりだね」
その言葉に、リオナは目を見開いた。
(え? アリアーゼ様の、知り合い?)
アリアーゼに目を向けると、アリアーゼも驚いた様子で口を開いた。
「まあ! エルクード殿下!」
伝説のまな板の華麗なる初仕事。卵焼きは犠牲になりました。
次回、王子様、いらっしゃいませ。




