ずっとそばにいて
坂の途中で、緑の屋根が見えた。白い壁が陽の光を反射して輝いている。
半月ぶりの我が家だ。煙突は少し傾いたまま、窓は閉めたまま、洗濯物を干す縄だけが風に揺れている。出ていったときと何も変わっていない。
リオナの足取りが少しだけ速くなった。
神殿にいた頃は、場所を借りているような感覚だった。実家は、いつしか帰りたくない場所になってしまった。
けれど今は、帰りたい場所がある。一緒に帰る人がいる。
それが、リオナには嬉しくてたまらなかった。
リオナはふと、隣を歩くアリアーゼを見た。すると、アリアーゼもこちらを見ていた。
目があってしまい、リオナはとっさに目を逸らしてしまった。なんだか照れくさかった。
そんなリオナの気持ちを知ってか知らずか、アリアーゼが口を開いた。
「うふふ。ようやく帰ってきましたわね」
その声は心なしか弾んでいるように聞こえた。
リオナも頷いた。
「そうですね。まな板も手に入ったし、無事に帰ってこられて良かったです」
毎度のことだが、本当に無事でよかった。リオナは今回の旅を思い出して、ちょっとだけ身震いした。
その時、二人に呼びかける声が聞こえてきた。
「おーい! おっかえりーっす!」
我が家の方から、まるっこい鳥がパタパタと飛んでくる。
鳥は、二人の目の前までくると、ポワンという音とともに、赤髪でへそを出した服装の可愛らしい女の子に変身した。
「ただいま帰りましたわ、アッチム」
「ただいま戻りました。お留守番、ありがとうございます」
二人が声をかけると、アッチムは満足そうに頷いた。
「うんうん。二人とも元気そうっすね。無事に帰ってこられてよかったっす」
アッチムは言い終わると、アリアーゼの背中に視線を向けた。
「おおー! 立派なまな板! 手に入ったんすね!」
「ええ! 世界樹のまな板ですのよ!」
「立派っす! すっごい立派っす!」
アッチムが背伸びしてまな板を見上げる。滑らかな表面の、立派な一枚板だ。木目は白銀に近く、角度を変えると薄く緑がかって光る。
「間違いなく世界樹っすね。よく手に入ったっすね!」
「ええ、快くわけていただけましたのよ」
「へえー……」
アッチムは感心しながら、リオナをちらりと見た。
リオナは小さく首を振って、困ったような笑顔を見せた。
「……そうっすか! とにかく、まずは旅の疲れを癒すといいっすよ。お疲れ! 《《リオナも》》本当にお疲れっした!」
アッチムはリオナにだけわかるようにそっと片目を閉じた。
リオナは小さく苦笑いを浮かべたのだった。
◇
三人はお茶でくつろぎながら、旅の話をしていた。
「じゃあ、アッチム様はルリ様のことをご存知だったのですね?」
リオナが驚いた声で言った。
「そりゃ、聖獣仲間っすからね。前にエルセリルの森に行ったのは五百年……、いやもうちょっと前かな? その時にも会ってるっす」
アッチムは遠い記憶を探るように答えた。
「ルリ様はアッチム様のことを忘れておいででしたよ。それどころか、自分が聖獣の化身だってことも忘れていました!」
「ああ……あいつ、昔からそうなんす。忘れっぽいんすよ」
アッチムは呆れたように肩をすくめた。
「まったく、いくら化身の方が楽だからって、千五百年も化身のままで、自分のことも忘れるなんて。聖獣の面汚しっすよ」
アッチムは悪態をついているが、声には懐かしさを楽しむ雰囲気があった。
リオナは、思わず笑みをこぼした。
「――ところで」
アリアーゼが湯呑みを置いた。
「アッチム。世界樹で、あの男に会いましたのよ」
「あの男?」
「瘴気の森の地下で会った死人占い師。ネクロマンサーですわ」
アッチムの表情が固くなった。
「……あいつっすか」
「ええ。世界樹の生命力を吸っておりましたの。餌だと申しておりましたわ。それと、前に会ったときより、明らかに力をつけておりましたわ。浄化の魔法を乗せた剣も、通りませんでしたの」
アッチムは険しい顔で眉を寄せた。
リオナは湯呑みを両手で包んだまま、言葉を継いだ。
「オリハルコンの包丁でなんとかなりました。アリアーゼ様のおかげで、撃退はできましたが、討てたわけではありません」
「……そうっすか」
アッチムの表情がより険しくなった。
アリアーゼはリオナの方を向きながら、口を開いた。
「リオナの光る魔術も効きましたわね。それと――」
アリアーゼはアッチムに向き直った。
「去り際に名乗ったのですわ。我の名はゼルード、と」
アッチムが顔を上げた。
「ゼルードっすか? 千五百年前に討たれた冥王の名っすね」
「ご存知でしたのね」
「知ってるも何も、あの戦いにはうちも参加したっす」
リオナは湯呑みを取り落としそうになった。
「ええっ? そうなんですか?」
「冥王と人類の戦いに、聖獣たちも力を貸したっす。そんで、たしかに冥王は討たれたっすよ」
「……そうなんですね」
リオナは少しだけ表情を柔らかくすると、お茶をすすった。
「でも、聞くほどに怪しい奴っすね。冥王の名を語り、何を企んでいるのか」
アッチムは湯呑みを置いて、腕を組んだ。
「ま、うちらにできることは限られてるっすよ。居場所も分からない、何をしたいかも分からない。次に出てきたら、またぶん殴ってやればいいっす」
「まあ、そうですわね。次にお会いしたら、今度こそ逃がしませんわ!」
アリアーゼは湯呑みを高々と掲げた。
「さてと」
アッチムが椅子から立ち上がった。
「二人とも疲れてるっすよね? 今日はゆっくり休むといいっすよ。風呂、沸かしといたっす」
「まあ、アッチム」
アリアーゼの顔が、ぱっと明るくなった。
「さすがフェニックス様は気が利きますわ」
「へへへ。んじゃ、ごゆっくりー」
アッチムはひらひらと手を振って、物置小屋へ戻っていった。
◇
半月ぶりの自宅の湯殿である。
宿の湯も、里の温泉も、それぞれに悪くはなかった。けれど自分の家の湯は違う。床の木目も、桶の傷も、湯気の匂いも、全部知っている。
その安心感の中で、リオナは身を固くしていた。原因は、後ろの人物だ。
風呂に入るなり、アリアーゼはいつものように「リオナを洗ってあげる」と申し出てきた。一緒に風呂に入るのはいつものことだが、洗ってもらうのはどうにも慣れそうになかった。
……というより、慣れてはいけないと思わせる手つきだった。
「まあ。リオナ、また少し焼けましたわね」
「そりゃ、半月も外を歩いていましたから」
「ここは白いままですわ」
「変な所を触らないでください」
アリアーゼは聞いていない。石鹸の泡を手のひらに広げ、リオナの背中を撫でていく。
すべ。
すべ、すべ。
容赦のない手つきだった。生真面目で、丁寧で、どこにも遠慮がない。肩から背骨に沿って下り、脇腹を回って、また上がってくる。
「あ、あの、いつも言ってますけど、自分で洗えますってば」
「これも修業ですわ」
「何の修業ですか」
「殿方の背中を流すのも、お嫁さんの務めですもの」
「わたし、殿方じゃないですけど」
「練習ですわ」
いつもの答えだった。リオナは諦めて前を向く。抵抗するだけ無駄なのは分かっている。
湯気が立ち上っている。窓の外はもう暗い。
すべ、と手のひらが動いて、そこで止まった。
「ねえ、リオナ」
「はい」
「いつもわたくしの夢に、無理に付き合わせてしまって、ごめんなさいね」
一瞬、静寂が落ちた。雫の跳ねる音が、やけに大きく聞こえた。
リオナは振り返らずに答えた。
「……そんな、無理にだなんて思ってません」
その声は、自分で思うよりもずいぶんと小さく出た。
「わたしは、アリアーゼ様のお役に立てているのなら、むしろ嬉しいです」
背中の手が、また動き出す。さっきより、ずっとゆっくりと。
「そう言ってくださるのなら、わたくしも嬉しいですわ」
アリアーゼの声はいつも以上に優しかった。
そして。
「リオナ。これからも、ずっとそばにいてくださる?」
アリアーゼの手の平が、リオナの肩にそっと置かれた。
リオナの頭の中が、真っ白になった。言葉がすぐには出てこない。一生懸命に考えているうちに、アリアーゼの言葉が続いた。
「例えわたくしが、誰かのお嫁さんになっても」
リオナは答えなかった。答えられなかった。
リオナは、肩に置かれたままのアリアーゼの手に、そっと触れた。濡れた指が、その手の甲を包む。
アリアーゼの手を、きゅっと握った。それだけだった。
アリアーゼは、それ以上は何も言わなかった。
湯の音だけが、静かに響いていた。
久しぶりの我が家でいい感じに寛いでいると思ったら。
アリアーゼ様、それは言ってはいけないやつです。
次回、花嫁修業を頑張る二人の元へ、思わぬ来訪者が!




