悪魔のような女
「エルセルリオン様。ちょっとよろしいかしら」
声をかけられて、エルセルリオンは振り返った。
そこには、アリアーゼが、にこにこと微笑みながら立っていた。
「先ほどのお話の続きなのですけれど」
「……先ほど、とは」
「うふふ」
アリアーゼは、両手を組んで小首をかしげた。
「まさか、お忘れではありませんわよね?」
その瞬間、エルセルリオンの背筋を冷たいものが走った。
「世界樹は、無事に救われましたわね」
「……ああ。そうだな」
「わ、た、く、し、のおかげで」
エルセルリオンは、アリアーゼの発する言葉から見えない圧を感じた。
「そ、それは……その通りだな」
アリアーゼはにんまりと笑った。
「それと、魔族が襲ってまいりましたわね」
「……ああ」
エルセルリオンは思わず一歩下がった。
「エルセルリオン様は、お怪我をなさいましたわね」
「したな」
「わ、た、く、し、た、ち、がいなければ」
アリアーゼの目に力が入った。
「あのまま、命を落としていたかもしれませんわね?」
エルセルリオンは、答えられなかった。
実際、その通りだった。刃が振り下ろされる寸前、この女が間に入ってきた。あの時、自分は地面に膝をついて動けなかったのだ。
「いかがかしら」
「いや、その」
エルセルリオンの目が泳ぐ。
「それとも――」
アリアーゼの声が、ほんの少し低くなった。
「エルヴスの長というものは、命を救われても、恩を返さない方なのかしら?」
「なっ」
エルセルリオンが、目を剥いた。
「ま、待て! 誰がそんなことを言った!」
「あら。言っておりませんの?」
「言っておらん! 礼をしないとは、一言も言っておらんだろうが!」
◇
里の者たちが、遠巻きに見ていた。
「……なんだ、あれ」
「長が押されてる」
「あんな長、初めて見た」
リオナは、こめかみを押さえていた。
(まったく、こういう所は侯爵令嬢ですね……)
命を懸けて戦った直後に、その戦いを交渉材料にしている。しかも、言っていることは一つも間違っていない。
アズリウスは、少し離れたところでとぐろを巻いていた。首だけをこちらへ向けて、実に楽しそうに眺めている。
「ならば、話は簡単ですわ」
アリアーゼが、両手を合わせた。
「世界樹の材を、少しだけ。ほんの少しだけで結構ですのよ」
「だから、それはだめだと言っておるだろうが!」
「まあ! では、やはり恩を――」
「そういう話ではない!」
エルセルリオンは、額に手を当てた。
「いいか。落ち着いて聞け」
深く息を吸う。
「世界樹は、まだ弱っておる。アズリウス様が力を注いでくださったが、あれは器を整えただけだ。これから何ヶ月もかけて、自分で治っていくのだ」
「……はい」
「そこへ、健康な枝を切り落とす。そんな無謀なことができると思うか」
アリアーゼの動きが、止まった。
「弱った者から血を抜くようなものだ。今の世界樹に、それを耐えるだけの力はない」
「……そう、ですわね」
アリアーゼは、しゅんと肩を落とした。
「申し訳ありません。わたくし、そこまで考えが至りませんでしたわ」
その様子に、エルセルリオンの方が慌てた。
「い、いや。責めているわけではない」
「いいえ。わたくしが浅はかでしたの」
アリアーゼは、世界樹を見上げた。
「ようやく元気になられたのに。もう少し、休ませて差し上げないといけませんものね」
◇
「……あの、では」
リオナが、遠慮がちに口を挟んだ。
「切り落とした枝は、どうなさるんですか?」
地面には、黒く変色した枝が積み上げられている。太いものから細いものまで、十数本。
「あれか」
エルセルリオンは、そちらへ目をやった。
「燃やす」
「燃やすのですか?」
「闇に侵食されて、中まで腐っておる。もはや世界樹の材とは呼べん。放っておけば、また何か悪さをするやもしれん」
アリアーゼが、ぱっと顔を上げた。
「では、あの枝でしたら、いただいても?」
「やめておけ。まな板になどならん」
エルセルリオンは、首を振った。
「あの枝たちは力を失っている。力を失った世界樹の材は、ただの脆い木だ。加工にすら耐えきれず、割れてしまうだろう」
「……そうですの」
アリアーゼは、また肩を落とし、頭を垂れた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。その怪しい瞳に気づいたのはリオナだけだった。
「ちなみに、あの腐れ枝の他に、健康な枝が落ちてきましたらどうですの?」
エルセルリオンは、フッと鼻で笑った。
「そんな事は、万が一にもありえんよ」
「仮にですわ。仮に、今から新たに切り出さなくても、健康な枝が一本あったとしたら?」
エルセルリオンは苦笑いを浮かべた。
「あり得ん事だが、その時は考えてやらんでもない」
エルセルリオンは、そう言ってから積み上げられた枯れ枝に視線を向けた。
「……おや?」
積み上げられた黒い枝の中に、一本だけ、明らかに色の違うものが見えた。表面が日の光を受けて、淡く輝いている。
「ちょ、ちょっと待て。なんだ、あれは」
エルセルリオンの声に、動揺の色が混ざる。
その瞬間だった。
「あーっはっはっは」
アズリウスが笑い声を上げた。
「これ、アリアーゼ。わしの目はごまかせんよ?」
「ぎくうっ」
アリアーゼの肩が跳ねた。アズリウスが視線を向けると、アリアーゼは露骨に顔を逸らした。
エルセルリオンは、積み上げられた枝の山へ駆け寄った。黒く変色した枝の中に、どう見ても健康な枝が一本混ざっていた。しかも、結構太い。
「こ、これはどういうことだ?」
エルセルリオンが、アリアーゼを振り返る。
「どういうことじゃ?」
アズリウスも、首を伸ばしてアリアーゼを覗き込んだ。
アリアーゼは、今になって気づいたように目を見開いた。
「あら、まあ。大変ですわ」
両手で口元を覆う。
「手元が狂ってしまったようですわ。わたくしとしたことが、健康な枝を、ま、ち、が、え、て、落としてしまうなんて」
両手で顔を覆い、肩を震わせる。
アズリウスが、呆れたように目を細めた。
「アリアーゼよ。白々しいぞ?」
「まあ! なんのことでしょう?」
アリアーゼは、顔を覆ったまま答えた。
リオナが、深いため息をついた。
「ルリ様。この一本で、世界樹が枯れることはありますか?」
「それは、ないよ。大丈夫じゃ」
アズリウスは、あっさりと答えた。
「この程度なら問題ない。すでに器は整っておるし、わしの力も流れた。一本程度の枝なら、世界樹が耐えられぬほどではないわ」
「……だそうですわ」
アリアーゼが、そっと顔を上げた。
その顔には、いつの間にか満面の笑みが浮かんでいた。
「き、貴様……!」
エルセルリオンが、震える指でアリアーゼを指した。
「最初から、そのつもりで!」
「まあ、失礼ですわ」
アリアーゼは、心外だという顔をした。
「わたくし、世界樹を救うために全力を尽くしましたのよ?」
「それは、そうだが」
「その途中で、たまたま、手元が狂っただけですわ」
「たまたまだとっ!?」
◇
「まあ、よいではないか……」
アズリウスが、のんびりと口を挟んだ。
「アズリウス様! しかし、これは」
「長よ。落ち着け」
アズリウスは、その長い首をゆらりと揺らした。
「枝は、もう切り出されておる。今さら戻すことはできまい?」
「それは……そうですが」
「どのみち、切り落とされた枝じゃ。腐らせるか、使われるか。どちらがよいかの」
エルセルリオンは、口を開いて、閉じた。
切り落とされた枝を見て、世界樹を見て、それからアリアーゼを見た。
――そして、長い長い息を吐いた。
「……仕方がない」
エルセルリオンは、がっくりと肩を落とした。
「負けたよ。その枝は、好きにしろ」
◇
「やりましたわあああああ!」
アリアーゼが、両手を突き上げた。
「リオナ! リオナ、聞きまして!? 世界樹の材をいただけましたわ!」
「は、はい。聞いてました」
「伝説のまな板ですわ! ついに、ついに!」
アリアーゼは、リオナの両手を掴んで、ぶんぶんと振り回した。
「ちょ、アリアーゼ様、目が回ります!」
「うふふふ! 夢が叶いますわ!」
その場にいた全員が、その光景を眺めていた。世界樹を救った英雄が、まな板ひとつで小躍りしている。
「……なあ」
里の者の一人が、隣に囁いた。
「あの方、世界樹を救ってくれたんだよな?」
「そのはずだ」
「……まな板のために?」
「たぶんな」
エルセルリオンは、何も聞こえないふりをした。
◇
「あ、そうだ」
ひとしきり、アリアーゼの喜びにつきあった後で、リオナがふと思い出した。
「エルセルリオン様。文献に、世界樹の材は切り出してから七日の間しか加工できないと書いてありましたが」
「ああ、それは本当だ」
エルセルリオンは、疲れた顔で頷いた。
「七日を過ぎれば、材は完全に安定する。そうなれば、もはやどんな刃も通らん。三日三晩炎にさらさなければ、燃えることもなくなる」
「では、急がないとですね」
「里まで三日だ。残り四日で仕上げることになるな」
エルセルリオンは、そこで少しだけ目を細めた。
「……アリアーゼよ。里の職人に頼んでやる。エルヴスの最高の職人だ。腕はいいぞ。要望を伝えて、好きなだけ加工するがよい」
「まあ! よろしいんですの?」
アリアーゼが、目を輝かせた。
「ここまで来て、素人に削らせるわけにもいくまい」
エルセルリオンは、ぷいと顔を背けた。
「言っておくが、恩を返すだけだからな。それ以上の意味はない」
その言い方に、リオナはどこかで聞いたような既視感を覚えた。
振り返ると、アズリウスが髭を揺らして笑っていた。
ついに世界樹の材を手に入れたアリアーゼ。エルセルリオン様、本当にお疲れさまでした。
次回――最後にもう一悶着?
お楽しみに!




