ポンコツ長老
四人が世界樹の前へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
残っていた里の者たちが駆け寄ってくるが、皆一様に青い顔をしている。
「エルセルリオン様、世界樹が……」
エルセルリオンが世界樹を見上げる。その場にいた全員が、言葉を失い、動けなくなった。
――あの光沢が、消えている。
朝、ここに立った時は、一歩進むごとに色が変わった。白銀、翠、薄紅がかった金。同じ色を二度見ることはなかった。
それが今は、灰色がかった一色に沈んでいる。どの角度から見ても、同じだった。
頭上の葉は、透けるほど薄かったはずだ。それが色を失い、力なく垂れ下がっている。足元には、黒い葉が幾重にも降り積もっていた。朝には、数えるほどしかなかったのに。
「そんな……」
エルセルリオンの眉間に、深い皺が刻まれた。
「半日だぞ。たった半日で、ここまで」
◇
リオナはすかさず世界樹に駆け寄った。
幹に両手を当てる。目を閉じた瞬間、リオナは息を呑んだ。
生命力の流れは、まだあった。膨大で、底が見えない。それは変わらない。
だが、その中に黒い筋が幾本も混ざっていた。ゼルードが繋いでいた、あの冷たい線ではない。もっと細かく、もっと広く、生命力そのものに絡みついている。
――浸食されている。
リオナは、その一本に意識を集中した。
「大いなる光よ、集え。闇を祓いて、その身を浄めよ」
光が流れ込み、黒い筋がほどけていく。筋がひとつ、消えた。
――浄化できる!
そう思った次の瞬間だった。
筋が消えた場所のすぐ隣から、新しい黒い筋が滲み出した。一本が二本に分かれ、二本が四本になる。リオナが一本を祓う間に、その倍が生まれていた。
「……嘘」
リオナは、意識を集中して、次々と浄化の光を流し込んだ。次々と黒い筋を祓う。汗が顎から滴り落ちた。指先の感覚が消えていく。それでも手を離さなかった。
しかし。
どれだけ祓っても、黒い筋は減るどころか、増え続けていった。
◇
「リオナ!」
肩を掴まれて、リオナは我に返った。振り返ると、心配そうなアリアーゼの顔が見えた。
「もうおよしなさい。顔が真っ青ですわ」
「でも、まだ……」
「リオナ! これ以上はあなたが持ちませんわ!」
その声に、リオナは膝から力が抜けて、そのまま地面に座り込んだ。両手が、震えていた。
エルセルリオンが、そばに膝をつく。
「リオナ殿。何が起きている。教えてくれ」
「……浸食されています」
リオナは、うつむいたまま答えた。
「闇の魔力が、世界樹の生命力そのものに糸のように絡みついて、内側から広がっているんです。闇の魔力はもう接続されていません。それなのに、浸食だけが独りでに進んでいます」
「祓えぬのか」
「祓えます。でも、間に合いません」
リオナは、顔を上げた。目に涙が滲んでいた。
「わたしが一本祓う間に、二本増えます。二本祓えば、四本になります。追いつかないんです」
エルセルリオンの喉が、鳴った。
「では、どうなる」
リオナは、答えるのをためらった。言わなければならないことは分かっていた。それでも、この人に向かって言うのは、あまりにも酷だと思った。
「リオナ殿。頼む。正直に言ってくれ」
「……持って、三日です」
その言葉に、里の者たちがざわめいた。
「三日で、世界樹は枯れます」
◇
誰も、動かなかった。
風が、頭上を渡っていく。葉の鳴る音がした。かつては、ざあ、と大きく響いた音だ。それが今は、乾いた音を立てている。
エルセルリオンは、幹を見上げたまま立っていた。その背中は、ひどく小さく見えた。
「……わたしの代で、か」
掠れた声が漏れた。
「神話の時代から、ずっとそこにあったものを。たかだか数百年しか生きておらぬわたしの代で、失うというのか」
誰も、答えられなかった。
アリアーゼが、そっとリオナの背に手を置いた。リオナは、その手の重さに気づかないほど、打ちのめされていた。
――自分の力が、足りないからだ。
そう思った。思わずにはいられなかった。
しばらくの静寂が続いた。
やがて、エルセルリオンが振り返った。
「……ひとつだけ、思いつく方法がある」
その声に、全員が顔を上げた。
◇
「我らの神話に、こうある」
エルセルリオンは、世界樹の幹に手を触れた。
「その昔、この地に一本の若木があった。それは、ただの木だった。それに命を吹き込み、世界樹たらしめたのが、聖獣アズリウスだと」
「聖獣、アズリウス様……」
リオナが呟いた。
神殿でも、その名は教わった。四体の聖獣のうちの一体。癒しと、生命を司る青き龍。
「世界樹は、アズリウスの力そのものから生まれた。ならば」
エルセルリオンは、拳を握った。
「アズリウスの力があれば、これを癒すことができるはずだ。少なくとも、我らの中で、それ以外に思いつく術はない」
「では!」
リオナが、立ち上がった。
「アズリウス様に、お願いすれば」
「……そこだ」
エルセルリオンの肩が、落ちた。
「アズリウスの居場所がわからんのだ。今いる里の者は誰も会った事がない。千五百年前に、冥王を打ち倒した戦い。あれを最後に、アズリウスが人前に姿を現した記録は、ただの一度もない」
「千五百年も……」
リオナは、言葉を失った。
「どこへ行ったのか。何をしておるのか。生きておるのかどうかすら、分からん。我らの記録にも、人間の伝承にも、手がかりは一切残っておらんのだ」
場を沈黙が支配した。
リオナは、ふと顔を上げた。
「そうだ……!」
三人の視線が、一斉にリオナへ集まる。
「同じ聖獣様に聞いてみるのはどうでしょうか? フェニックス様なら、ご存じかもしれません!」
「フェニックスを知っておるのか?」
エルセルリオンが目を見開いた。
「はい! アッチム様に聞けば、きっと何か手がかりが――」
「待て。アッチムとは、誰だ?」
「フェニックス様の化身です。わたしたち、一緒に住んでいるんです」
「……なんと!」
エルセルリオンは思わず声を上げた。
「聖獣と共に暮らしておるというのか……!」
希望が差し込んだのも束の間、エルセルリオンの表情はすぐに曇った。
「手がかりは掴めるかもしれん。だが、間に合うのか」
「あ……」
リオナは口をつぐんだ。
シオイナ山までは、どれほどの距離があるだろうか。ここから里まで三日。里から王都まで、さらに数日。そこからラカの村へ。往復で、半月はかかる。
三日しかないのに。
「……ごめんなさい。無理ですね」
リオナは、力なく座り直した。
その横で、ルリが首をかしげた。
「アッチム?」
ぽりぽりと頬を掻く。
「なんじゃろうな。その名前、聞いたことがあるような、ないような……」
◇
日が、木々の向こうへ沈もうとしていた。
誰も言葉を発しなかった。
エルセルリオンは、幹に額を押し当てたまま動かない。里の者たちは、声のかけようがなく、ただ立ち尽くしている。
リオナは、膝を抱えて座り込んでいた。何か方法があるはずだ。そう思って考え続けたが、何も浮かばなかった。
アリアーゼが、その隣に腰を下ろす。何も言わずに、リオナの手を握った。
ただ一人、ルリだけは落ち込んだ様子もなく、全員を見回すと口を開いた。
「まあ、仕方がないよ。なるようにしかならんじゃろ」
その声は、あまりにも軽かった。
リオナが顔を上げると、ルリが伸びをしていた。
「枯れたら枯れたで、その時はその時じゃ。また芽が出るのを待てばよかろう」
その言葉に、リオナの中で、何かがぷつりと切れた。
「……ルリ様」
立ち上がる。
「どうして、そんなひどいことを言うんですか」
「ひどいことじゃと?」
ルリは、きょとんとした顔をした。
「だって、事実じゃもん」
「事実だとしても!」
リオナは、叫んでいた。
「言い方ってものがあるでしょうが! エルセルリオン様が、どんな気持ちでそこに立っておられると思ってるんですか!」
「なんじゃと」
ルリの眉が、跳ね上がった。
「口のききかたに気をつけよ。わしは長老じゃぞ」
「いいえ、言わせてもらいます!」
リオナは、一歩踏み出した。
「このポンコツ!」
◇
「なんじゃとおおお!」
ルリが、飛び上がった。
「リオナ! めんこい顔をしている癖に、何てことを言うんじゃ!」
ルリの怒声にもリオナは怯まなかった。
「ポンコツだから、ポンコツと言ったまでです!」
「くうう! 言わせておけば! わしを馬鹿にするでない!」
「馬鹿にされるようなことをおっしゃったからです!」
「わしは長老じゃぞ!」
「知ってます!」
「ルリ様じゃぞ!」
「それも知ってます!」
「わしはな! 青龍アズリウスの化身じゃぞ!!!」
――その瞬間、風が止まった。
リオナの口が、開いたまま止まる。エルセルリオンが、幹からゆっくりと顔を上げた。アリアーゼだけが、きょとんと首をかしげている。
「……なんて?」
リオナが、掠れた声で言った。
「じゃから、わしは長老で、ルリ様で、青龍アズリウスの化身で……」
ルリの動きが、止まった。
「…………」
目が、ゆっくりと見開かれていく。
「…………あっ!」
ルリは、両手で自分の頬を挟んだ。
「思い出したああああ!」
その場にいた全員が、ルリを凝視していた。
「そういえばわし、青龍アズリウスの化身じゃったわ」
残り三日。絶望的な状況の中、まさかの人物が名乗りを上げました。
次回――青龍アズリウス、登場!




