疑う必要なんてなかった
次の日の朝、二人は宿の食堂で、食事をとっていた。
賑わう食堂は、どこか浮ついた空気に満ちていた。客たちが、一つの話題で、持ちきりになっている。
「聞いたか? 王都の話よ」
「ああ、シュレム王太子殿下と、騎士団長アリアーゼ様の婚約破棄だろう」
「新しい婚約者は、ナターシャ様というご令嬢らしいな」
リオナの手が、スプーンを持ったまま、止まった。
「なんでも、アリアーゼ様は、そのご令嬢にずいぶん辛くあたっていたとか」
「それに、ずいぶんと気位が高くてなあ。王太子殿下のことも、ずっと蔑ろにしていたとか」
「剣ばかり振って、淑女の嗜みひとつ知らん女だったそうだ。そりゃ、捨てられもするさ」
「それに比べて、ナターシャ様は、それはお淑やかな方らしいぞ。もう、お世継ぎもお出来になったとか」
どっと、下品な笑いが起きた。
リオナは、そっと、向かいの席をうかがった。
アリアーゼは、涼しい顔で、スープを口に運んでいる。自分の噂だというのに、眉ひとつ動かさない。
「……アリアーゼ様。あの、あれは」
「ふふ。わたくしのことね」
アリアーゼは、小さく笑った。
「婚約破棄されたのは事実ですし、噂に尾ひれは付きものです。わたくしから申し上げることは何もありませんわ」
その横顔には、怒りの色も悲しみの色もなかった。
リオナは、もう一度、噂話に耳を傾けた。聞こえてくるのは、アリアーゼを貶める言葉と、ナターシャを褒めそやす声ばかりだった。
誰も、違う、とは言わない。
そんな噂を聞かされて、胸の奥が、ざわついた。
アリアーゼ様と出会って、まだほんの僅かだ。自分は、この人の何を知っているというのだろう。
自分から見たアリアーゼ様は、噂のような人には思えない。
それでも、もしかしたら。
噂のほうが真実なのかもしれない。
――そんな考えが頭をよぎり、リオナは、そっと目を伏せた。
◇
「ねえ、リオナ」
宿を出て、しばらく歩いた頃、アリアーゼが、ふいに口を開いた。
「わたくし、この国、グランベル王国を出ようと思っていますの」
「……え」
「隣の国へ、行ってみようかと。あなたさえ、よければ」
それは、リオナにとっては、渡りに船の申し出だった。
政略結婚から逃げてきた身だ。この国にいる限り、いつか、実家の手が伸びてくるに違いない。国境を越えられるなら、それに越したことはない。
「わたしは、構いません、けれど……」
言いかけて、リオナは、口ごもった。
今朝の食堂での噂話が、ふと、頭をよぎった。
気位が高く、王太子を蔑ろにし、令嬢に辛く当たって婚約破棄された女騎士。
もしかしたら、あの噂は本当なのかもしれない。
この人は、居場所をなくして、この国から逃げ出そうとしているのかもしれない。
そんな疑いが、ちらりと、頭をかすめた。
そう思ってしまってから、リオナは、自分が嫌になった。
命を救ってもらった相手を、こんなふうに勘ぐるなんて。
「……ご一緒、します」
結局、それだけを言った。
アリアーゼは、嬉しそうに、ふわりと笑った。
◇
国境の関所は、思いのほか、混み合っていた。
グランベル王国を出ようとする者たちが、長い列をなしている。その一人ひとりを、衛兵が呼び止め、身分を検めていた。とりわけ、若い女の姿を見つけると、念入りに。
「……次の者、前へ」
リオナの心臓が、嫌な音を立てた。
自分には、手配が回っているかもしれない。ここで身元を検められれば――終わりだ。
「あ、あの、アリアーゼ様、わたし……」
声が、震える。
「大丈夫ですわ。わたくしに、お任せなさい」
そう言って、アリアーゼは衛兵とリオナの間に立った。
「身分を検める。女は、こちらへ――」
「うふふ。通してくださるかしら?」
アリアーゼが話しかけると、衛兵の一人が、はっと目を見開いた。
「あ、アリアーゼ様……!?」
声が、上ずる。
衛兵は、慌てた様子で、その場を離れていく。
「隊長! 隊長を、お呼びしてまいります……!」
あっという間の出来事だった。
リオナは、わけも分からず、ただアリアーゼの隣で立ち尽くしていた。
「アリアーゼ様ーっ!」
声とともに、一人の男が、人混みをかき分けて駆けてきた。がっしりとした体つきの、若い男だった。
「あら。国境警備隊隊長の、グーダスさんね」
アリアーゼが、ふわりと笑う。
「お久しぶりですわ」
「はっ、ご無沙汰しております……! あ、あの、アリアーゼ様。噂は、本当なのですか。騎士団長を、お辞めになったというのは」
「ええ。本当よ」
アリアーゼが、こともなげに答える。
グーダスは、しばらく言葉を失ったように立ち尽くし、それから、苦渋の表情を浮かべた。
「……王国は、馬鹿だ……!」
絞り出すような、声だった。
「あなた様の代わりなど、どこにも、いないのに……! あなた様が、どれほどこの国を守ってこられたか……なのに、あんな、あんな仕打ち……!」
大きな体を震わせ、グーダスは、子どものように泣いた。
周りに集まった衛兵たちも、次々と、口を開いた。
「団長……もう、我々のところには、戻ってきてはくださらないのですか」
「あなた様がいなくなると聞いて、皆、どれほど心細く思っていることか」
「どうか、お達者で……」
誰も彼も、惜しみ、悲しみ、涙ぐんでいる。
まるで、遠くへ嫁ぐ、身内の娘でも見送るような、そんな別れ方だった。
その時。
「そちらのお嬢様は……?」
衛兵の一人が、リオナを見て、そう訊いた。
「わたくしの、大切な連れですわ」
アリアーゼが、当然のように答える。
その言葉に、リオナは思わず目を見開いた。
「さようでございますか!」
それだけだった。
誰も、リオナの身元を検めようとはしなかった。名も、素性も、問われなかった。アリアーゼの連れだという、ただそれだけで、疑う者は、誰一人としていなかった。
「では、皆さん。達者でね」
アリアーゼは、ひらりと手を振ると、もう歩きだしていた。
いつもの、のんびりとした足取りで、振り返ることは、なかった。
リオナは、その背中を追いながら、胸が、いっぱいになった。
悪い噂を、ほんの少しでも、信じかけた自分が、恥ずかしかった。
噂のような酷い女に、あんなにも、大勢の人が、涙を流すだろうか。代わりなどいない、と、体を震わせて泣く者がいるだろうか。
誰も検めようとしないほどの、絶大な信頼を、勝ち得ているだろうか。
――ああ。これが、アリアーゼ様の、真実なんだ。
これまで見てきたアリアーゼ様は、何一つ偽りではなかったのだ。
なんだか、無性に、バツが悪かった。
何か、一言、詫びたいような、礼を言いたいような。うまく言葉にならない気持ちを抱えて、リオナは、その隣に並んだ。
「……アリアーゼ様」
声をかけようとして、アリアーゼの顔を見て――脱力した。
「んふ……んふふ……」
アリアーゼは、歩きながら、だらしなく頬を緩めていた。
とろん、とした目で、宙を見つめている。
――ああ。この人、また、妄想してる。
リオナは、天を仰いだ。
さっきまでの、しんみりとした気持ちが、音を立てて崩れていく。
やっぱり、この人は、ポンコツだ。
どうしようもなく、残念で、ふわふわしていて。
でも。
――悪い人じゃないってことだけは、はっきりしたわ。
リオナは、そっと、口元をゆるめた。
この時、リオナは気づいていなかった。アリアーゼが、自分を守るために、国を出ようとしてくれていた、ということを。
それを知るのは、ずいぶん後になってからだった。
国を越え、二人の新しい旅が始まりました。
次回、アリアーゼとリオナは、旅先で初めての事件に遭遇します。
※ぜひ第6話もお楽しみください!




