ドキドキして眠れません
その日の遅く、二人は小さな宿場町にたどり着いた。
宿を取り、荷を置くと、リオナは手早く動きはじめた。乱れた寝具を整え、ほつれたアリアーゼの外套を繕い、階下で頼んだ食事の受け取りまで、よどみなくこなしていく。
「まあ……まあ、まあ!」
アリアーゼは、その一つ一つに、目を丸くした。
「リオナ、あなた、なんて手際がよろしいの……!」
「これくらい、普通です」
繕い物の手を止めず、リオナは答える。神殿では、掃除も裁縫も炊事も、当たり前の日課だった。取り立てて褒められることでもない。
「普通、ですって……」
アリアーゼは、きらきらとした目でリオナを見つめ、それから、しみじみと呟いた。
「リオナは、本当に、いいお嫁さんになりますわね」
「……っ」
リオナの手が、止まった。
「わたしは」
きっ、と顔を上げる。
「お嫁さんには、なりたくないんですってば!」
「あら」
「あらじゃないです!」
ぷんぷんしながら繕いを再開するリオナを、アリアーゼは、きょとんと眺めていた。
◇
夕食の後、宿の女将が「湯が沸いておりますよ」と声をかけてくれた。
小さいながら、湯殿のある宿だった。旅の埃を落とせると、リオナはほっと胸をなで下ろす。
「では、一緒に参りましょう」
アリアーゼは、ごく自然に言った。
「……一緒、ですか?」
「ええ。何か問題でも?」
「あ、あの……その……」
出会って間もない相手と湯殿へ向かうことに、リオナはためらいを覚えた。
「ふふふ。リオナのために、とっておきを出してあげますわ」
そう言ってアリアーゼは、荷物から小さな包みを取り出した。それは、とてもよい香りのする石鹸だった。
「わあ……」
ふわりと漂う上品な香りに、リオナは思わず目を細めた。こんな石鹸は、神殿でも使ったことがない。
「ね? だから一緒にお風呂に参りましょう?」
「……は、はい」
リオナはつい、頷いてしまった。
◇
湯殿には、誰の姿もなかった。
この時間に入る客は少ないのか、湯気の立ちこめる浴場には、二人きりだった。
衣服を脱ぎ終えたリオナは、思わず胸元を両腕で隠す。出会ってまだ半日も経っていない相手と裸で向き合うのは、どうにも気恥ずかしい。
一方のアリアーゼは、そんな様子など気にも留めず、堂々と湯殿へ足を踏み入れていく。その立ち姿は凛としていて、無駄のない肢体は、まるで一枚の絵画のように美しかった。
リオナは、思わず息を呑む。
――綺麗。
昼間、街道で初めて顔を見た時にもそう思った。けれど、柔らかな湯気に包まれたその姿は、あの時以上に、目を奪われるほど美しかった。
「では、リオナ。わたくしが、洗って差し上げますわ」
アリアーゼが、当然のように言った。
「……え、いえ、自分でできますから!」
「あら。お嫁さんなら、そうするものかと思って。練習ですわ」
「練習!?」
リオナが止める間もなく、アリアーゼの手が、石鹸を泡立てはじめる。
「とても香りのよい石鹸ですのよ。王宮で流行ってましたの」
ふわりと、甘く優しい香りが、湯気に混じって立ちのぼった。
「さあ、遠慮なさらず」
泡立てた手が、リオナの背に滑る。すべ、すべ、と。
「あ……っ、アリアーゼ様、そこは、いいですから……!」
「なにをおっしゃいますの。隅々まで綺麗にしなければ、だめですわ」
まるで剣の鍛錬でもするような、生真面目な手つきだった。手を抜くということを知らない。
リオナの背中を、肩を、腕を、丁寧に、丁寧に、泡が滑っていく。
「ちょ、ちょっと、指が……!」
「動かないでくださいまし。まだ、途中ですわ」
「ひゃっ……! きゃあ!」
湯殿に、リオナの悲鳴が響いた。
アリアーゼは、実に涼しい顔で、鼻歌など歌っている。
この人は、何も分かっていない。本当に、何も。
リオナは、真っ赤になった顔を、両手で覆った。
こんなに心臓が跳ねているのは、湯のせいだけでは、断じて、なかった。
◇
その夜。
宿の狭い寝台に、二人は並んで横になった。
アリアーゼは、あっという間に寝息を立てはじめた。女ふたり、身を寄せて眠ることに、何のためらいもないらしい。無防備なものだ。
リオナは、眠れずにいた。
窓から差し込む月明かりが、隣で眠るアリアーゼの顔を、淡く照らしている。
長い睫毛。すっと通った鼻筋。昼間の凛々しさが嘘のように、あどけない寝顔だった。
――綺麗な人。
ふと、そう思ってしまって、リオナは慌てて目を閉じた。
閉じても、だめだった。すぐそばから、あの石鹸の甘い香りが、ふわりと漂ってくる。同じ湯を使ったのだから、当たり前だ。当たり前なのに。
湯殿での、あの手のひらの感触が、よみがえってしまう。
(……もうっ!)
リオナは、寝台の中で、ぎゅっと丸くなった。
(ドキドキして、眠れませーん!)
だいたい、と、リオナは、暗がりの中で思う。
この人と出会って、まだ半日も経っていないのだ。なのに、命を助けられて、先生にされて、一緒に旅をすることになって、一緒にお風呂まで入って。
そして、今はこうして、同じ寝台で、その寝顔に、どきどきさせられている。
(……はやすぎませんか!?)
誰にともなく、心の中で叫ぶ。
もちろん、答える者はいない。すぐ隣で、アリアーゼが、すやすやと幸せそうな寝息を立てているばかりだった。
その夜、リオナが眠りに落ちたのは、ずいぶんと、遅い時刻のことだった。
初めてのお風呂に、初めてのお泊まり。
リオナのドキドキは、まだ始まったばかりです。




