リオナの大ピンチ
部屋の中は、埃の匂いがした。
窓の雨戸が閉ざされているせいで、光は扉の隙間から差し込むものだけだった。奥に棚がひとつ。その上に、乾いた葉の束と、欠けた器がいくつか並んでいる。
リオナは、部屋を見回した。
本らしきものは、どこにもなかった。
「あの」
振り返ると、エルドランは、扉の前に立ったままだった。背を預けるようにして、動く気配がない。
「記録というのは、どちらに」
「ああ。その前に、少し話をしないか」
エルドランは、壁に背を預けたまま続けた。
「あなたは、この森に来てまだ間もない。だが、里の者は皆、あなたのことを話している。子どもを救った聖女だと」
「……そんな大げさなものでは」
リオナは慌てて手を振った。
「謙遜しなくていい。実際、あなたのような娘は、この森にはいない。癒しの力を持ち、そのうえ、その容姿だ」
リオナは、思わず一歩下がった。
「あの、記録の話を……」
「あなたは、なぜあの連れの女に従っているのだ」
リオナの動きが、止まった。眉を寄せ、エルドランを見据える。
「……従っている、というのは?」
「昨日から見ていた」
エルドランが一歩近づいた。
「あの女が前を歩き、あなたが後ろを歩く。あの女が話し、あなたが黙っている。荷を持つのも、支度をするのも、あなただ。あれでは、連れというより小間使いだ」
「……違います」
「では、何だ」
リオナは、口を開いた。だが、言葉が出てこなかった。
お世話係です。
花嫁修業の先生です。
いつもなら、するりと出てくる答えだった。それが、喉の途中で引っかかっている。
(――役に立てるから、隣にいられる)
今朝、自分でそう思ったばかりだった。
「人間の生は短い」
エルドランは、その沈黙に滑り込むように言った。
「あなたは、あと何十年生きる? その、わずかな時間を、他人の世話をして終えるつもりか」
「…………」
リオナは俯いて話を聞いている。
「わたしなら、あなたを大切にする」
エルドランが、もう一歩近づいた。
「その力も、その姿も、正しく扱われるべきだ。あの女は、あなたの価値を分かってはいまい」
◇
リオナは、顔を上げた。
「――帰ります」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「わたしは、アリアーゼ様のところへ帰ります」
「話はまだ終わっていない」
「わたしは終わりました。あの方のことを、あなたに言われる筋合いはありません」
エルドランの眉が、わずかに動いた。
「失礼します」
リオナは扉へ向かい、取っ手に手をかけた。
――動かない。
もう一度、力を込める。押しても引いても、扉はびくともしなかった。
「ふん。無駄だ。開かんよ」
背後から届いた声は、先ほどまでの穏やかなものではなかった。
リオナは、振り返りざまに一歩下がった。両腕を前に構える。
「大気の風よ、集え――」
言い終わる前に、手首を掴まれた。素早い動きに、反応ができなかった。
冷たい何かが、手首に嵌まる感触があった。それは金属の輪だった。
「……っ!」
その瞬間、体の芯から力が抜けた。
いつもなら指先に集まるはずの熱が、どこにも見つからない。掌の中が、からっぽになっていた。
「魔封じの腕輪だ。おまえがどれだけ実力のある聖女でも、これは破れまい」
エルドランは、リオナの手首を掴んだまま、事もなげに言った。
「はっ、離してくださいっ!」
リオナは腕を振り払い、後ずさった。壁に背が当たる。それ以上、下がれなかった。
「よい声で鳴くのだな。聞き分けのない女は嫌いではない。落ちたときの顔が、格別だからな」
エルドランは、口の端を持ち上げた。
その顔から、丁寧さはきれいに剥がれ落ちていた。
リオナの背筋が、冷たくなった。
この男は、最初からこうだったのだ。里の話も、記録の話も、全部そのためのものだったのだ。
「せっかくの人間の娘だ。たっぷり可愛がってやろう」
エルドランが、一歩、距離を詰める。
その時、背後で鍵の開く音がした。続けて扉が開いた。
◇
(もしかして、アリアーゼ様が……)
しかし、リオナの淡い期待は打ち砕かれた。
「よう、エルドラン。首尾はどうだ」
男たちが、ぞろぞろと入ってきた。
新たに入ってきたのは四人。井戸端で笑っていた顔が、そこに並んでいた。
「おお、上玉だな」
「腕輪はもう嵌めたのか」
「相変わらず仕事が早い」
男たちが、口々に言いながら扉を閉める。
リオナは、壁に背を貼りつけたまま、その光景を見ていた。
力は出ない。扉は塞がれた。声を上げても、ここは里から遠い。
助けは、来ない。誰も、自分がここにいることを知らない。
――アリアーゼ様。
膝が震えた。目の奥が熱くなる。
朝、振り返らずに出てきたことを、初めて後悔した。
「さて、いただくか」
エルドランが、手を伸ばしてくる。リオナは、固く目を閉じた。
エルドランの手がリオナに触れようとした瞬間――
ドゴォ!!
轟音とともに、扉が吹き飛んだ。
蝶番ごと引き剥がされた扉が、一人のエルヴスの男を巻き込んで部屋を横切り、奥の壁に叩きつけられる。木片が飛び散り、埃が舞い上がった。
男はうめき声をあげているが、立つことはできなそうだ。
差し込んだ太陽の光を背に、人影が立っていた。
「うふふ」
その声を、リオナは知っていた。
「おいたはいけませんわよ?」
◇
男たちはあっけにとられ、誰も動くことができない。
日の光を背に立つアリアーゼは、どのエルヴスよりも美しく見えた。
見とれる間もなく、アリアーゼの姿が消えた。
一人目が、壁まで飛んだ。二人目が、床に沈んだ。三人目は、何が起きたのかも分からないまま、天井を見上げて倒れた。四人目は、扉と共に吹っ飛んだまま今も動いていない。
あっという間に、立っている男はエルドランだけになっていた。
「な……なんだ、貴様は――」
エルドランが、後ずさる。
「リオナ。お怪我はありませんかしら?」
アリアーゼは、エルドランを見てもいなかった。
「……大丈夫、です」
リオナは震える声で答えた。
「そう。よかったですわ」
アリアーゼは、微笑んだ。それから、ようやくエルドランへ顔を向けた。
「ところで、あなた」
その目は、笑っていなかった。
「わたくしのリオナに、何をなさろうとしていましたの?」
エルドランは、答えられなかった。腰の短剣に手をかけようとして、その手が止まる。指が、震えていた。
「まあ。だんまりですの。では、こちらから申し上げますわね」
アリアーゼは、小さく首をかしげた。それから、一歩、近づく。
「わたくしが魔獣を成敗した様はご覧になりまして? アレと同じ処遇でよろしいかしら?」
エルドランの脳裏に、真っ二つになった魔獣の姿が思い浮かんだ。
「ひいいいいっ!」
エルドランは、尻もちをついてその場にへたり込んだ。
◇
「アリアーゼよ! お主、速すぎじゃ!」
入り口から、息を切らした声が飛び込んできた。ルリだった。
髪が乱れ、耳の花飾りが半分ほど落ちかけている。壁に手をついて、肩で息をしていた。
「まあ。ルリ、大丈夫ですの?」
「大丈夫では、ないわ……!」
ルリは顔を上げると、部屋を見回した。
「どうじゃ? リオナは、無事か?」
「ええ。大丈夫ですわ」
「……そうか」
ルリは、短く息を吐いた。肩から、力が抜けるのが見えた。
それから。
床に転がる男たちへ、視線が向いた。部屋の空気が、変わった。
「……おのれら」
その声は、低かった。
「ルリ様! あの、これは……」
エルドランが口を開いた瞬間だった。
「だまれ!」
ばごん。
ルリの拳が、エルドランの右の頬にめり込んだ。
「それで?」
「ご、誤解がありませて。じ、実は……」
「やかましい!」
ばこん。
今度は左の頬にめり込む。
「あの、喋らせて」
ばこん。
エルドランが口を開くたびに、拳が顔にめり込む。エルドランの顔の形が、少しずつ変わっていく。リオナは、思わず目を逸らした。
「うぬらは、わしの客人に手をだそうとした」
ルリは、手をかざした。その手から光が放たれる。
それと同時に、床から蔓が這い出し、男たちの体をぐるぐると巻き上げていった。数を数える間もなく、五人はまとめて縛り上げられていた。
「今度ばかりは許せぬ。長のところへ突き出してくる。アリアーゼ、リオナ。おぬしらは宿で待っとれ」
ルリは、蔓の端を掴んだ。そのまま、男たちを引きずって出て行った。
ずるずると、五人分の体が地面を擦る音が、遠ざかっていく。
「……行っちゃいましたね」
「そうですわね」
部屋に、静けさが戻った。
リオナは、その場にペタンと座り込んだ。膝に力が入らない。手首の腕輪が、かちりと音を立てた。
「まあ。これは無粋なものですわね」
アリアーゼが屈み込み、腕輪に指をかけた。ぱきん、と乾いた音がして、金属の輪が二つに割れて落ちる。
力が、戻ってきた。それと同時に、リオナの目から涙が零れ落ちた。
「……ふ、ふえぇ」
喉の奥から、こらえていたものが溢れた。
「ふえええん。うえええええん」
リオナは、両手で顔を覆った。
怖かった。声も出せないほど怖かった。それを、今になって体が思い出していた。
「よしよし。大丈夫ですわ」
頭に、手が乗った。
アリアーゼは、何も聞かず、ただ、ゆっくりと、リオナの頭を撫でた。
「もう大丈夫ですわ」
その声を聞いて、リオナはますます泣いた
やっぱりアリアーゼ様は助けに来てくれましたね。ルリが激怒していたのが気になるところです。
次回――ルリの本音とは?




