森の異変
「きゃあああっ!」
突然響いた叫び声は、明らかに尋常ではなかった。
「……何事ですか?」
リオナが振り返る。
アリアーゼの表情は、先ほどまでの不満げな色が消え、鋭いものへと変わった。
「あちらです!」
エルレンが叫んだ。
三人は、叫び声が聞こえた方へと一斉に駆け出した。
◇
木々が途切れるあたりに、人だかりができていた。輪の中心が、大きく割れている。
黒い獣が、そこにいた。
背丈は大人よりも高い。四つ足で地を掻き、口の端から黒いものを滴らせている。目が濁っていた。
間違いない。魔獣だ。
その前に、数人のエルヴスが立ちはだかっていた。手には、細身の弓と槍を携えている。里の防衛を担う者たちのようだ。
「放て!」
三本の矢が、同時に飛んだ。
しかし、矢は黒い体毛に乾いた音を立てて弾かれた。一本たりとも、刺さりもしない。
「なんだと」
「もう一度だ!」
槍を構えた一人が、前へ出る。
その瞬間、獣が首を振った。それだけで、槍ごと、体が横へ飛んだ。木の幹に激しく叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
「だめだっ!」
「下がれ、下がれ!」
隊列が崩れた。魔獣はその隙を見逃さなかった。
魔獣は獲物を狙うように、人々の集団に飛びかかった。人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
そして、魔獣の前足に、一人の子どもが捉えられていた。
「うわあああん!」
子どもの悲鳴が響く。
「誰か、助けてくれ!」
「無理だ! 近づけない!」
エルヴスたちは、遠巻きにすることしかできなかった。
魔獣が、子どもにトドメを刺そうと前足を振り上げた。
◇
「させませんわ!」
声と同時に、風が鳴った。
人だかりの隙間を、何かが抜けていった。誰の目にも、その動きは追えなかった。
一閃。
音は、ひとつだけだった。
振り下ろされる寸前の魔獣の前足が飛んだ。足を失った魔獣が、悲鳴を上げる。
その隙に、アリアーゼは子どもの身体を抱き上げた。
「アリアーゼ様!」
遅れてリオナとエルレンが駆けつけた。
「この子をお願いしますわ!」
子どもをエルレンが抱きかかえた。子どもは気を失っている。ポタポタと赤い雫が地面に染みを作った。
それを見たアリアーゼの表情が、変わった。
「よくも子どもに傷をつけましたわね!」
アリアーゼは、魔獣を睨みつけた。
「許しませんわ!」
次の瞬間、アリアーゼの姿が消えた。
再びの一閃。
魔獣の身体が、真っ二つに斬り裂かれ、巨体が地面へ崩れ落ちる。
あまりにも一瞬の出来事だった。
エルヴスたちは、誰一人として声を発することができなかった。
◇
「ああ、セイラス。しっかりしろ!」
エルレンが、抱きかかえた子どもの頬を軽く叩いた。
他のエルヴスたちも、心配そうに駆け寄ってくる。
アリアーゼも、すぐに戻ってきた。
セイラスと呼ばれた子どもは、反応を見せない。小さな体の脇腹が、深く裂けていた。
その呼吸が、次第に弱くなっていく。
「駄目だ、セイラス。死なないでくれ。頼む……」
エルレンの声が震えた。
その様子を見たリオナが、すぐに駆け寄った。
「エルレン様、わたしに任せてください」
「リオナさん……?」
「まだ、間に合います」
リオナはセイラスの身体に手を当てた。
「この子を、助けます!」
リオナは目を瞑って、手の平に意識を集中させた。リオナの手に白い光が集まっていく。
「大いなる光よ、集え!」
リオナの手の平が、眩い輝きを放った。
「傷を閉じ、その命を繋ぎとめよ!」
光が、セイラスの傷の裂け目へ流れ込んでいく。
皮膚の縁が、内側から寄り始めた。血の流れが止まる。
リオナは、額に汗を浮かべたまま、手を離さなかった。
周りのエルヴスたちが、じりじりと距離を詰めてくる。誰も口をきかない。
「……あれは」
その中に、遅れて駆けつけたエルセルリオンがいた。
「聖女の……力か」
エルセルリオンは誰にともなく、呟いた。
やがて。
セイラスが薄く目を開けた。
「……んん」
小さな声が漏れる。
「セイラス!」
人だかりが、一斉に崩れた。
エルヴスたちが駆け寄り、子どもを覗き込む。手が伸び、頭を撫で、頬に触れる。何人もの手が、同時にその子に向かっていた。
「ふう。間に合いました」
リオナは、汗を拭いながら、その様子を眺めていた。
不意に隣に人影がたった。
「うふふ。リオナ、さすがですわ」
アリアーゼが優しく微笑んでこちらを見ている。
「それを言うなら、アリアーゼ様だって」
リオナもそう言って微笑んだ。
◇
「他に、大きな怪我をした者は」
エルセルリオンが問うと、防衛隊の一人が首を振った。
「エルセインが弾き飛ばされましたが、意識はあります。他の者も、かすり傷程度です」
「そうか」
エルセルリオンは、ひとつ息を吐いた。それから、アリアーゼとリオナの二人へ向き直った。
「二人とも。よくぞセイラスを助けてくれた」
エルセルリオンは、そこで一度言葉を切った。
「……先ほどは、失礼な物言いをした。その上で礼を言うのは、虫の良い話だが、深く感謝申し上げる」
エルセルリオンが、二人に向かって深く頭を下げた。
その姿を見て、周囲のエルヴスたちも次々と二人へ声をかけ始めた。
いつの間にか、里のエルヴスたちが二人を囲んでいた。
先ほどまで遠巻きに眺めていた者たちも、今は誰もが二人のすぐそばまで来ている。
「人間のお方。セイラスを助けてくださって、本当にありがとう」
「魔獣を一人で斬るなんて。すごいよ」
エルヴスたちから、口々に声が上がる。
「うふふ。淑女のたしなみですわ」
アリアーゼは、にこやかに微笑んだ。
「あんなふうに傷を癒せるなんて!」
リオナの周りにも人々が集まる。
「いえ、そんな……あの子が無事でよかったです」
リオナは慌てて手を振った。
◇
セイラスはエルヴスの女性に抱かれていた。どうやら問題はなさそうだ。
次に、別の女性がセイラスを抱きかかえた。優しく声をかけられ、セイラスが笑顔を見せる。
その頬を、さらに別の女性がそっと撫でる。乱れた髪を、別の男性が直している。
一人の男性が水の入った器を運んできた。セイラスは、それを受け取って口をつけた。
リオナは、その光景をしばらく眺めていたが、ふとした疑問を口にした。
「エルセルリオン様。あの子のご両親は、どなたなのでしょうか?」
場が、わずかに静まった。
「両親?」
エルセルリオンが、首をかしげる。その表情は、聞き慣れない言葉を確かめるようだった。
「はい。あの子の、お父様とお母様です」
「……ああ。生みの親、ということか」
少しの間を置いて、エルセルリオンは頷いた。
「それなら、それぞれが別々の森で暮らしておる」
リオナは、瞬きをした。エルセリルの森以外にも、エルヴスの森があるとは聞いていた。だが、この子の親がそこにいるという話が、うまく飲み込めなかった。
「……一緒に暮らしては、いないのですか?」
「そうだな」
何でもないことのように、エルセルリオンは答えた。あまりにあっさりとした返事に、リオナは慎重に言葉を選んだ。
「あの、それは、何かご事情があって……」
「事情?」
エルセルリオンの眉が、わずかに上がった。それから、リオナの目をまっすぐに見た。
「何も特別な事情などない。我らは、そなたたち人間のように血縁を重視せぬのだ。エルヴスの子は、誰かの子ではなく、種族全体の子だ」
リオナは、言葉を返せなかった。
エルセルリオンは、抱かれているセイラスへ目をやった。大人たちは次々とセイラスへ手を伸ばし、セイラスは皆に笑顔を向けている。
「我ら、エルヴスは子が生まれにくい。時には数十年も子どもが生まれないこともある。だからこそ、生まれた子は種族の宝だ。誰が産んだかなど、大した意味を持たない。この子を守り、育てるのは、種族みんなの役割なのだ」
「まあ」
声を上げたのは、アリアーゼだった。
「では、皆様が家族なのですわね」
「家族、か。そう言ってもよいのかもしれんな」
エルセルリオンは、少しだけ考えてから頷いた。
リオナは、何も言えずにいた。自分自身の人生を思い返してみる。
物心つく前に神殿へ預けられ、家が傾いたからと呼び戻された。シェストロームという姓に縛られ、顔も知らぬ相手のもとへ嫁がされかけた。逃げ出さなければ、今ごろどうなっていたか分からない。
この里の子は、誰か一人の子ではない。だからこそ、誰かの都合だけで、その人生を決められることもないのだろう。
(……そんな生き方も、あるんですね)
リオナは、もう一度セイラスへ目を向けた。
セイラスは、大人たちに囲まれ、嬉しそうに笑っている。
その光景を、リオナはしばらく眺めていた。
◇
「リオナ、と言ったな」
顔を上げると、エルセルリオンがこちらを見ていた。先ほどまでの穏やかな声とは、少し違っていた。
「はい」
「あの子の傷は、決して浅くなかった。あれをあそこまで治せるものなのか」
「……はい。聖女修行を続けてきましたので」
エルセルリオンは、しばらく黙っていた。
やがて、その視線がゆっくりと里の奥へ向いた。木々の向こう、二人がまだ足を踏み入れていない方角だった。
夕日はすでに落ちかけ、その先は薄い影に沈んでいる。
「聖女の力か。その力があるのなら、あるいは……」
エルセルリオンは、小さく呟いた。それから、ゆっくりとリオナへ振り向いた。
「リオナ……いや、リオナ殿」
「はい?」
エルセルリオンは、ほんの少し視線を落とした。
「ぶしつけな頼みで申し訳ないのだが……」
エルセルリオンは何かを決意したように、顔を上げた。
「一緒に、この里の長老に会ってはくれないだろうか?」
「わたしが……ですか?」
リオナは戸惑いながら、アリアーゼを見た。
アリアーゼも首を傾げながら、リオナを見返す。
「頼む」
エルセルリオンは、深々と頭を下げた。
リオナは、もう一度視線をアリアーゼに向けた。アリアーゼが頷いたのを確認すると、口を開いた。
「はい。わたしたちは、別にかまいませんが」
「そうか。感謝する」
エルセルリオンがそう言った、そのときだった。
「呼んだかの?」
背後から声が聞こえた。振り返ると、そこに銀の髪の女が立っていた。
「あっ!」
リオナは、思わず声を上げた。
立っていたのは、森で最初に出会った女性――ルリだった。
エルヴス族にとって、子どもは種族みんなの宝。その子どもを救えたアリア―ぜとリオナでした。そして、ルリは里の長老!?
次回――ルリが二人に語る、世界樹の異変とは?




