世界樹をください
エルレンに案内されて、二人は里の奥へと歩いていた。
エルレンの表情からは、先ほどまでの人の良い笑みが消えていた。どこか硬い表情を浮かべ、心なしか歩く速度も速い。
「……あの、エルレンさん」
リオナが、遠慮がちに声をかけた。
「はい」
「わたしたち、失礼なことを言ってしまったようで、すみません」
「いえ」
エルレンは、前を向いたまま答えた。
「それで、世界樹のことなのですが……」
言いかけたリオナの言葉を、エルレンは手で制した。
「その話は、長の前でしましょう」
「……はい」
エルレンは、それ以上何も言わず、再び歩き始めた。
リオナも、その背中を追った。
隣では、アリアーゼだけが、木々の梢を見上げながら、のんびりと歩いていた。
◇
案内されたのは、里の一番奥にある家だった。
他の家より大きいわけではない。むしろ、外から見れば質素な造りだった。けれど、その周囲だけは明らかに違っていた。
家を取り囲むように、ひときわ太い大樹が何本も立っている。長い年月を生きてきたのだろう。幹には深い皺が刻まれ、枝は家の屋根を覆うように伸びていた。木々の隙間から差し込む光も、そこだけは不思議なほど穏やかだった。
そして、何より静かだった。
人の話し声も、足音も聞こえない。
まるで、この場所だけが里の喧騒から切り離されているようだった。
「長。お客人です」
エルレンが声をかけると、中から一人のエルヴスが現れた。
銀に近い長い髪を、後ろで一つに束ねている。顔立ちは、やはり若く見える。二十代半ばと言われても、リオナは疑わなかっただろう。
だが、その瞳を見た瞬間、リオナは言葉を失った。
深い青の瞳だった。
静かで、穏やかでありながら、どこか底知れない。
長い年月を生きてきた者だけが持つ、そんな雰囲気があった。
「ようこそ、客人よ。私が、この里を預かるエルセルリオンだ」
低く落ち着いた声が響く。
「わたくしは、アリアーゼ・フォン・ローレンスですわ」
「リオナ・シェストロームと申します」
二人が頭を下げる。エルセルリオンは、二人を順に見た。
「人間がエルセリルの森を訪ねてくるのは、久しぶりだ。何用で参った?」
リオナが口を開くより早く、アリアーゼが前に出た。
「実は、世界樹の材を少し分けていただきたいのですわ」
エルセルリオンは、しばらくアリアーゼを見つめていた。
「……世界樹の材を手に入れて、どうするつもりだ?」
エルセルリオンが問うと、アリアーゼは、にこやかに口を開いた。
「料理に使うまな板を作りたいと思っておりますの」
「まな板? 世界樹の材で、なぜまな板を?」
エルセルリオンが、不思議そうに尋ねる。
「実は、これがわたくしの大切な包丁なのですが」
アリアーゼは、腰に差していた包丁を取り出した。
それを見たエルセルリオンの目が、わずかに細くなる。
「その刃物。素材はオリハルコンか」
「さすが、よくご存じですわね。わたくし、この包丁で料理の修業をしておりますの。ですが、あまりに切れ味が良すぎて、普通のまな板では耐えられないのですわ」
「なるほどな」
リオナは二人のやりとりをはらはらしながら見つめていた。
エルセルリオンが難しい顔をして、何か言おうとした瞬間、リオナはとっさに口を挟んだ。
「アリアーゼ様は、その、本気でお料理の修業をされているんです。今お使いの包丁も、グラニス族の里まで赴いて、苦労して手に入れた物なんです。だから、あの、端材でよろしいので、何とかわけていただけないでしょうか……」
言いながら、自分でも、ずいぶん無茶なお願いをしていると思った。
「ふむ……事情は理解した」
エルセルリオンは、静かに言った。
リオナは、ほっとしたように顔を上げた。
――しかし。
エルセルリオンの次の言葉は、期待を裏切るものだった。
「世界樹の材を渡すことはできない」
◇
場は重苦しい雰囲気に包まれた。
「そこを、なんとかなりませんかしら」
アリアーゼは身を乗り出して、再度エルセルリオンに頼み込んだ。
「だめだ。諦めよ」
エルセルリオンは、明確に拒絶した。そのまま言葉を続けた。
「お前たちは気軽に世界樹を求めておるが――」
その声に、初めて力がこもった。
「世界樹が、我々エルヴスにとってどのような存在か、知っているのか」
エルセルリオンが低い声で問いかけると、アリアーゼは口を閉じた。
「あれは、我らの象徴だ。エルヴスという種族が、森と共に在ることの証だ。そして、世界樹のおかげで、森は維持され、我々は長命を享受できておるのだ」
エルセルリオンは、二人から目を逸らさなかった。
「その材を切り出し、道具にすることなど、認められるはずもない」
「……そうですの」
アリアーゼは、しょんぼりと肩を落とした。
それから、ちらりとエルセルリオンを見上げた。
「では、落ちている枝でよろしいですわ」
「それもだめだ。世界樹の一部であることに変わりはない」
「では、その端材は」
「だめだと言っておる」
「ほんの欠片だけでも」
「しつこい」
エルセルリオンの眉が、わずかに寄った。
アリアーゼはなおも食い下がる。
「葉っぱはどうですの?」
「世界樹の葉は貴重な薬草だ。だが、里の店で売っとるよ」
「葉っぱでは、まな板は作れませんわ」
「お前が言ったんだろうが」
そんな二人のやりとりに、リオナはそっと目を伏せてこめかみを押さえた。
二人の会話は止まらない。
「では、根っこはどうですの?」
「なぜ根っこなら良いと思うのだ」
「地面の下ですもの。目立ちませんわ」
「そういう問題ではない」
アリアーゼは口をへの字に曲げた。
それから、思い出したように懐から財布を取り出した。
「そうですわ! お金なら払いますわ!」
エルセルリオンは動じなかった。
「金の問題ではない」
「もしかして、掟で決まっていますの?」
「そうではない」
「では、誰の許可がいりますの?」
「わたしだ」
「では、許可してくださいな」
「だーかーらー、だめだって言ってるの!」
エルセルリオンはドンドンと地面を踏みしめた。
リオナはいいかげん、頭が痛くなってきた。
「頑固者!」
「お前もいい加減あきらめろ! だいたい、世界樹は今大変なことになっとるのだ! それどころじゃないっての!」
エルセルリオンの言葉に、リオナは思わず顔を上げた。
「エルセルリオン様。それはどういうことですか?」
「…………」
エルセルリオンの動きが、止まった。
「ごほん。すまぬ。こちらの問題だ。今の話は忘れなさい」
エルセルリオンはそう言って、居住まいを正した。
「とにかく、この話はもう終わりだ。下がりなさい」
「まだお話は終わっておりませんわ!」
アリアーゼはまだ食い下がろうとしたが、エルセルリオンは答えなかった。そのまま背を向け、奥へと去っていく。
「きいい! わからずやですわ!」
「アリアーゼ様も、相当しつこいですよ」
リオナは、ため息をついた。
◇
長の家を出ると、日が傾き始めていた。
行きは背筋を伸ばして歩いていたエルレンが、今は肩を震わせている。口元を手で覆っているが、笑みを隠しきれていない。
「……失礼。長が、あんな言葉遣いをするのを聞いたのは初めてでして」
「笑いごとではありませんわ!」
アリアーゼが振り返った。頬を膨らませ、ぷんぷんしている。エルレンは今度こそ噴き出した。
リオナは、苦笑いを浮かべるしかなかった。断られた側が怒り、断った側の部下が笑っている。何かがおかしい気はしたが、指摘する気力もない。
「よろしければ、宿までご案内しますよ」
エルレンがにこやかに言った。
「お願いしますわ」
アリアーゼは、まだ少し頬を膨らませている。
「もうっ! あの長には困ったものですわ」
「はは……」
エルレンは、また笑いそうになるのを堪えた。
「大事なまな板のお話なのに、聞く耳を持たないなんて!」
「十分聞く耳を持ってくださってましたよ」
アリアーゼとリオナはそんな言葉を交わした。
その時だった。
「きゃあああああっ!」
突然、里のどこかで叫び声が響いた。
エルヴス族にとって大切な世界樹。どうやら交渉はうまくいかなかったようですね。
次回――エルセリルの森で事件が起こります。




