新たな問題
朝の食卓に、湯気を立てる皿が並んでいた。
「朝食ができましたわ!」
アリアーゼが、得意げに、卵焼きの皿を差し出した。
「わあ」
リオナは、思わず、目を丸くした。
少し不格好ではあるものの、どうにか卵焼きの形にはなっていた。
厚みはところどころ違い、巻き方も少々怪しい。それでも、焦げてもいなければ、生焼けでもない。少なくとも、卵焼きと呼んでも怒られない程度にはなっていた。
「ずいぶん上達してきましたね!」
七割ほどお世辞を上乗せして、リオナは言った。
「まあ! これもリオナのご指導のおかげですわ」
アリアーゼが、頬をほんのり染めた。嬉しさを隠しきれない様子だった。
「今日は、甘めの味付けですのよ」
アリアーゼは自信満々に、胸を張った。
リオナに褒めてもらえたことが、よほど嬉しかったのだろう。その顔には、いつになく自信が満ちていた。
「お、うまそうっすね」
アッチムが横から、一切れぱくりと口に運んだ。
次の瞬間、その表情がぴたりと固まった。
「……こういうベタなミスは、やめてほしいっすね」
嫌な予感を覚えつつ、リオナとアリアーゼも、続いて口に運ぶ。
「……塩ですね?」
「塩ですわ」
「しょっぱすぎですね」
「しょっぱすぎですわ」
三人とも、しばらく無言になった。
「うちの卵、無駄にしてほしくないっすね」
アッチムが皿を恨めしそうに見ながら、ぼそりと呟く。
「が、頑張って、食べますわ……」
アリアーゼは涙目で、皿を見つめた。そして、覚悟を決めたように、箸を動かし始めた。
「やれやれですね」
リオナは肩をすくめて、それ以上は何も言わなかった。
◇
朝食の後、まな板の上で、アリアーゼが包丁を握っていた。
朝の光が、刃の上を滑る。振り下ろす動きに、以前のような危なっかしさはない。手首の返しも、力の入れ方も、すっかり様になっていた。
「アリアーゼ様、包丁の扱いも、上手になってきましたね」
リオナが、その手さばきを見ながら、感心したように言った。
「うふふ、そうかしら」
アリアーゼは、満足げに頷いた。
――だが。
「あれ?」
リオナは、まな板を見下ろした。
表面に、細かい傷が無数に走っていた。木肌はあちこち削れ、ささくれ立っている。昨日までにはなかった深い傷まで、いくつも刻まれていた。
「アリアーゼ様。まな板、こんなに傷んでましたっけ」
「あら」
アリアーゼも手を止め、まな板を見下ろした。
昨日まで、ここまでひどくはなかったはずだ。リオナとアリアーゼは、しばらく無言で傷跡を見つめた。
「交換しましょうか」
リオナが言う。
「そうですわね」
アリアーゼは、素直に頷いた。
◇
リオナが新しいまな板を出してきた。傷ひとつない、真新しいまな板だ。木の色も明るく、まだ使われた形跡がどこにもない。
「これなら、しばらく大丈夫でしょう」
リオナが言う。
「まあ! これでまた練習できますわね!」
アリアーゼの顔が、ぱっと明るくなった。
そのまま包丁を握り直す。
トントン、トントン。
軽快な音が、台所に響いた。
アリアーゼの手つきは、さらに滑らかになっている。刃が木の上を滑るたび、心地よい音がリズムよく続いていく。
「ふふっ」
アリアーゼは楽しそうに笑った。どうやら、すっかり調子を取り戻したらしい。
そして――。
アリアーゼは、鼻歌交じりに包丁を振るい続けた。
◇
数刻後。
「…………」
二人は、まな板を見つめていた。
先ほどまで、傷ひとつなかった。それが今では、表面一面に傷が刻まれている。
深い刃の跡。
細かな傷。
削れた木の表面。
真新しかったはずの木肌は、見る影もなかった。
「これは……もう……使えませんね」
リオナは、思わず息を呑んだ。
「そうですわね。きっと、わたくしの腕が悪いのですわ……」
アリアーゼは、まな板を見つめて、しょんぼりと肩を落した。
「アリアーゼ様。どうやら、それは違うようです」
リオナは、まな板と、アリアーゼの手にある包丁を、見比べた。
「アリアーゼ様が、上手になられたからだと思います」
「わたくしが……?」
「はい。以前とは比べものにならないくらい、包丁の扱いが上手になっています」
アリアーゼは、手にした包丁を、まじまじと見つめた。
オリハルコンの包丁。
それは、アリアーゼの手になじめばなじむほど、その鋭さを増していた。
「その……伝説の包丁が素晴らしすぎて、まな板が耐えられないんだと思います」
リオナは、傷だらけになったまな板を見つめた。
「アリアーゼ様が上達されるほど、包丁の切れ味も増しているようですから」
「まあ……」
アリアーゼは、手にした包丁を見つめた。
「つまり、わたくしが上達しているという事で間違いはないのかしら?」
「はい。それは間違いありません」
リオナの言葉に、アリアーゼの顔がパッと明るくなった。
「……でも、これは問題ですね。このままではまな板がいくつあっても――」
リオナはアリアーゼに視線を向けて、そのまま崩れ落ちた。アリアーゼはもうすでにリオナの話を聞いていなかった。
◇
まだ見ぬ旦那様が、アリアーゼへ優しく語り掛けてくる。
『アリアーゼ。伝説の包丁を使いこなす君は、なんて素敵なんだ』
『まあ……』
アリアーゼの頬が、ぽっと赤く染まった。
『もっともっと、伝説の包丁を振るう君の姿を見ていたいよ』
『かしこまりましたわ。お任せくださいな』
アリアーゼは、現実のリオナに向き直った。
「リオナ! そういうわけですわ!」
「どういうわけですか?」
リオナは呆れた声で答えた。
「ですから! 伝説の包丁を、もっともっと、練習したいですわ!」
アリアーゼは、包丁を大事そうに抱きしめた。
「これ以上は無理です! その包丁に耐えられるまな板が、ないんですってば」
リオナは、両手を広げて首を振った。
「そ、そんな!」
アリアーゼは、絶望した表情を見せた。
◇
「傷つかないまな板が、欲しいですわ」
夕食の席で、アリアーゼが、唐突に切り出した。
「そんなものが、あるんですか?」
リオナは箸を止め、首をかしげる。
「どれだけ包丁を使っても、傷ひとつつかないまな板ですわ」
リオナとアッチムは、顔を見合わせた。
「聞いたことないっすね」
「わたしも、ありません」
二人の声が重なった。
「そう、ですわよね……」
アリアーゼが、肩を落とす。
しばらく俯いていたが――ふと、顔を上げた。
「伝説のまな板……」
アリアーゼの瞳に、怪しい光が宿った。
「伝説の包丁に負けない、伝説のまな板が、きっとどこかに……」
「アリアーゼ様、それは」
「ないと思うっすよ」
リオナとアッチムの声が、再びぴたりと重なった。
「……ですわよね」
アリアーゼは、しゅん、と肩を落とした。
◇
その日以降、アリアーゼは、まな板のことで悩み続けた。
新しいまな板を出しても、すぐに傷だらけになる。刻まれた傷を見て、悲しそうに目を伏せる。
そして、包丁をそっと置く。
「……もっと、練習したいですわ」
その繰り返しが、何日も続いた。
「そこまで悩むことですか……?」
最初、リオナは呆れていた。だが、日を追うごとに、アリアーゼの元気が少しずつ失われていった。
笑う回数も、目に見えて減っていく。包丁を手にしても、以前のように嬉しそうな顔をしない。
アリアーゼは、日に日に元気を失っていった。
リオナは、そんなアリアーゼに呆れつつも――心配でたまらなかった。
せっかく上達した包丁の腕前。しかし、そのせいで新たな問題が発生してしまったアリアーゼ様。果たして、傷つかないまな板は見つかるのでしょうか?
次回――リオナ、王都の図書館へ!




