可哀想な暗黒龍
グラニスの里を発つのは、明日と決まった。
最後の夜だからと、里の者たちは、また酒を持ち出してきた。相変わらず、何かにつけて飲む人々である。
宴会は大いに盛り上がり、三人が宿へ戻ったのは、夜も随分と更けてからだった。
部屋に入るなり、アッチムが、ぽん、と丸っこい鳥の姿に戻った。
「ふああ……もう限界っす」
部屋の隅まで、とてとてと歩くと、そのまま、ころりと横になった。
ものの数十秒で、丸い体が、規則正しく上下し始めた。
リオナも、ベッドの端に腰を下ろした。そのまましばらく動かない。
「リオナ?」
「……ふぁい」
返事はしたものの、そのまま、ゆっくりと、横向きに倒れ込む。
「あら」
アリアーゼが覗き込むと、リオナはもう、目を閉じていた。
頬が、ほんのりと赤い。それ程飲んだわけではないが、どうやら酒が回っていたらしい。
乱れた髪が、頬にかかっている。アリアーゼは、そっと、それを指先で払ってやった。やがて、リオナは、小さな寝息を立て始めた。
◇
アリアーゼは、椅子に腰を下ろした。
膝の上には、革の鞘に収まった、あの包丁がある。鞘を、そっと、撫でると、新しい革の匂いがした。
窓の外は、静かだった。宴の喧噪も、もう聞こえない。
部屋の隅で丸くなっている鳥と、ベッドで眠っている少女を、順番に見る。
「――ふふ」
アリアーゼは、誰にともなく、微笑んだ。
そして、包丁を抱きしめるようにして、そっと、まぶたを閉じた。
◇
アリアーゼの脳裏に湯気の立つ食卓が浮かんだ。窓からは、やわらかな光が、差し込んでいる。
向かいの席で、まだ見ぬ旦那様が、ゆっくりと箸を置いた。
『今日の手料理は、特別においしいね』
『まあ、そんな』
アリアーゼは、頬を染めた。
『伝説の包丁で、作りましたのよ』
『伝説の包丁を手に入れるなんて。君は、本当に素敵だね』
『まあ、うれしいですわ』
アリアーゼは、頬に手を添え、恥ずかしそうにうつむいた。
再び、ゆっくりと視線を上げると、目の前には、笑顔のリオナが座っていた。
二人は、自然と見つめ合った。
『さすがです、アリアーゼ様』
リオナが言った。
『ありがとう。えへへ……』
…………。
――アリアーゼは、まぶたを開けた。
「……あら?」
しばらく、アリアーゼは、きょとんとしたまま、宙を見つめていた。
「リオナ?」
不思議そうに首を傾げる。
やがて、ゆっくりと、ベッドのほうへ、振り返った。
視線の先では、リオナが静かに眠っていた。
「……ふふ。ま、いっか」
アリアーゼは、小さく笑うと、包丁を枕元に置き、そのまま、リオナの隣へ、身を横たえた。
◇
翌朝。
鍛冶場の前を通りかかると、アルファスが立っていた。
炉には、まだ火が入っていない。仕事を始める前の、静かな時間だった。
「見送りに来てくれましたのね」
「ああ」
アルファスは、短く答えた。
しばらく、誰も、何も言わなかった。炉から、かすかに、昨日の熱の名残が漂っている。
「……行くのかい?」
やがて、アルファスが、口を開いた。
「ええ」
アリアーゼは、頷いた。腰には、革の鞘に収まった包丁が、下がっている。
「あなたには、本当に、お世話になりましたわ」
アリアーゼが、手を差し出す。
アルファスは、その手を、両手で包むように、握った。天才鍛冶師の、硬くて、大きな手だった。
「その包丁、大事に使ってやってくれ」
「もちろんですわ」
アルファスは、しばらく、その手を離さなかった。
それから、ぱっと、手を放す。
「達者でな」
「ええ。あなたも」
アリアーゼは、深く、一礼した。
◇
里の門では、長老が待っていた。
「もう行くのか。まったく、慌ただしい連中じゃ」
そう言いながらも、長老の顔は、名残惜しそうだった。
「長老様。試練を越えさせていただき、心より感謝いたしますわ」
「……三つの試練、な……」
長老は、遠い目をした。こめかみを、指で押さえながら、頭を振った。
「まあ、よい。達者に暮らせ。立派な嫁になるんじゃぞ」
「はい!」
アリアーゼが、元気よく答える。
長老は、うんうん、と何度も頷いた。そして、ふと、思い出したように、包丁のほうへ目をやった。
「そういえば、その包丁じゃがな」
「はい」
「オリハルコン製の、世界に一つしかない代物じゃ。大事にせえよ。オリハルコンの刃は、《《暗黒龍の鱗》》すら、貫くというからな」
その瞬間、リオナの動きが止まった。
(――今、なにか余計なことを言いませんでした?)
背中を、冷たいものが、伝った。ゆっくりと、本当にゆっくりと、隣を振り返る。
(な、何も起こりませんように。神様。たまには、わたしの願いを聞いてください)
そう思いながら、アリアーゼを見た。
アリアーゼの目が、輝いていた。
包丁の柄を握る手に、ぎゅっと、力がこもっている。
(……ああ、神様。わたしへの試練が多すぎやしませんかね?)
リオナは、すべてを、悟った。
「リオナ!」
「はいぃ……」
「試し切りに、参りましょう!」
リオナは、天を仰いだ。
その後しばらくして。
暗黒龍が討伐されたという噂が、国々を駆け巡った。
◇
ゼリアス王国、王宮執務室。
書類を捌いていたエルクードの手が、報告を聞いて、止まった。
「……もう一度、言ってくれるか」
「暗黒龍が、討伐されました」
サリエナの声は、いつもと同じく、平坦だった。
「討伐したのは、アリアーゼ・フォン・ローレンス。同行者は、リオナ・シェストローム。それと、身元不明の少女が一名」
エルクードは、ペンを置いた。
窓の外へ、目をやる。今日も、よく晴れていた。
「……アリアーゼか……」
しばらくの沈黙の後、エルクードは、低く呟いた。
「いったい、彼女たちの目的は何なのだろうか」
「不明です」
「……だろうな」
エルクードは、深く、椅子に体を沈めた。それから、静かに、命じた。
「監視を、強化せよ」
「かしこまりました」
サリエナが、一礼して、退出する。
残されたエルクードは、しばらく、天井を眺めていた。
第三章「伝説の包丁編」はここまで。ついに伝説の包丁を手に入れました。
次回からは第四章。花嫁修業はお料理だけじゃないのです。




