お嫁さんになりたくないのです
とある商家の一室で、若い女の声が響いていた。
「わたしは! 顔も知らない人のお嫁さんになんて、なりたくありません!」
彼女は、泣きながら叫んだ。
「うるさい! 我が商会のために、黙って言うことを聞け!」
怒鳴りつけたのは、兄だった。
久しぶりに実家へ呼び戻されたと思えば、この仕打ちか。用意されていたのは、顔も知らぬ相手との、婚姻の契約だった。
彼女の名は、リオナ・シェストローム。二十一歳。
お嫁さんになることから、逃げ出すことを決意した。
◇
リオナは、一人、街道を歩いていた。自分の足音だけが響いている
空はもう茜に染まりはじめていた。
日が落ちれば、この道はいっそう危うくなる。それくらいのことは、リオナにも分かっている。
それでも、足を止める場所も、頼れる相手もいなかった。
物心つく前に神殿へ預けられ、聖女となるべく育てられた。祈りを捧げ、傷を癒やし、人を支える術を学ぶ。静かで、穏やかな日々だった。リオナは、その暮らしが嫌いではなかった。
その日々が、家の都合で、あっけなく終わった。
「……はぁ」
ため息が、静かにこぼれた。
細い自分の腕へ、そっと視線を落とす。術は学んできた。けれど、自分の身を守るような経験は、一度もない。
――だから、それが茂みから這い出てきた時、一瞬で自分の終わりを覚悟した。
魔物だった。
犬とも狼ともつかない、ひしゃげた骨格をしていた。毛の抜け落ちた背が、呼吸のたびに大きく上下する。濁った目が、リオナを捉えた。
「っ……」
悲鳴は、喉の奥で潰れた。
逃げなければ。頭では分かっている。
なのに、足が言うことを聞かない。膝が笑って、その場に崩れそうになる。
魔物が、一歩、踏み出した。
涎が糸を引いて、土に落ちる。
もう一歩。
夕日が、その牙を赤く照らした。
――ああ、わたし、ここで死ぬんだ。
不思議なほど、静かにそう思った。
誰も知らない街道で、誰にも知られずに。逃げ出した先が、ここだった。
魔物が、大きく口を開いた。
その時だった。
「――おどきなさい」
声がした。凛とした、よく通る声だった。
次の瞬間、銀色の閃光が、リオナの視界を横切った。
魔物の首が宙を舞い、胴体は一歩踏み出したまま、ゆっくりと崩れ落ちた。
リオナは、呆然と顔を上げた。
夕日を背に、剣を静かに下ろした人の影が見えた。
長身。まっすぐな背。夕闇の中でも際立つ、凛とした立ち姿。
リオナは一瞬、美しい男の人だと思った。
だが、すぐに考えを改めた。
ゆっくりと近づいてきたその人は、匂い立つほどに美しい女性だった。
「お怪我は、ないかしら?」
差し伸べられた手を、リオナは思わず取っていた。
温かくて、けれど剣を握り慣れた、硬い手だった。
助かった。その実感が、じわりと遅れて込み上げてくる。
「あ……あの、ありがとう、ございます……」
礼を言いながら、その人の顔を見た瞬間、言葉を失った。
胸の奥が、とくん、と鳴る。
こんなに綺麗な人を、リオナは見たことがなかった。
しかし、その凛とした佇まいは、どこか人を寄せつけない気高さをまとっていた。
「危なかったわね。この刻限に、女ひとりで街道を行くなど、無謀ですわよ?」
気高い物言いなのに、不思議と見下されている気はしなかった。
そこでリオナはふと、その顔に見覚えがある事に気づいた。
どこかで――いや、まさか。
「あの……もしや、あなたさまは。王国騎士団長の、アリアーゼ様では……?」
王国最強と名高い、女騎士団長。その武名は、神殿にいたリオナの耳にも届いていた。
「ええ、そうよ。元、ですけれど」
アリアーゼは、こともなげに答えた。
「元……? 騎士団長を、おやめになられたのですか?」
「ええ。修業の旅に出た所ですの」
なるほど、とリオナは納得しかけた。
最強と謳われてなお、さらなる高みを目指しているのだ。なんて求道的な。
「王国最強と名高いあなた様でも、修業をなされるのですね」
「花嫁修業ですもの。大事な修業ですわ!」
「…………」
「立派なお嫁さんになるための、修業ですの」
「…………えっと?」
リオナの頭が理解を拒んだ。
花嫁修業。
王国騎士団長に元をつけてまで、やる物でしたっけ?
「……あ、あの、もう一回最初からいいですか?」
リオナは恐る恐る聞き返した。
結局、リオナは、もう一度同じ話を聞かされただけだった。
とりあえず、理解することはあきらめた。
◇
アリアーゼは、リオナを近くの町まで送ると言ってくれた。
日がすっかり落ちて暗くなった街道を、二人は並んで歩いている。少し先を行くアリアーゼの背は、やはり惚れ惚れするほどまっすぐだった。
しばらく無言で歩いていたが、やがてアリアーゼが振り向いた。
「ねえ。あなた、お名前は?」
問われて、リオナは言葉に詰まった。商家の姓を名乗ることに、抵抗がある。逃げてきた身だ。
「り、リオナ・シェストローム、です」
結局、リオナはフルネームを名乗った。
「リオナ! 素敵な名前だわ」
いきなり名前を褒められた。姓のことなど気にした様子もない。
リオナは頬が熱くなった。安心したような、照れくさいような、不思議な気持ちだった。
「それで、リオナ。あなたはこんな時間になぜひとりで?」
訊かれて、リオナは言葉に詰まった。
家のこと。神殿のこと。逃げてきたこと。どこから話せばいいのか、そもそも話していいのかも分からない。
「……その、いろいろ、ありまして。結婚から、逃げてきたんです」
あれこれ考えたあげく、それだけを、ぽつりと漏らした。
「あら」
アリアーゼは、驚いた表情を浮かべて、リオナを見た。
「まあ、それはつまり――お嫁さんには、なりたくない、ということかしら?」
「……そう、ですね」
うなずくと、アリアーゼは優しく微笑んだ。
「いろんな方が、いらっしゃるのね」
アリアーゼはそれ以上詮索してこなかった。
なぜ、とも、もったいない、とも言わない。ましてや責めもしない。
リオナは、ふっと心が軽くなるのを感じた。気づけば、アリアーゼへ話しかけていた。
「あの、アリアーゼ様は、その、花嫁修業の旅、と」
「ええ」
「どちらへ、向かわれるのですか?」
「さあ?」
アリアーゼは、悪びれもせず言った。
「まだ、決めておりませんの。立派なお嫁さんになれる場所なら、どこへでも」
「行き先も、決めずに……?」
リオナは、思わず声を上げてしまった。
最強の女騎士が、あてもなく、花嫁修業の旅。あまりに、無防備で、無鉄砲で――
「あの、失礼ですが。具体的な目的などは?」
リオナは恐る恐る尋ねた。
「目的?」
「何かないのですか? こんなことをしたいとか?」
「…………」
アリアーゼが、ぴたりと足を止めた。
「…………卵焼き」
「はい?」
「おいしい卵焼きが作れるようになりたいですわ」
王国最強の女騎士は、そう言って頬を染めた。
「卵焼き……ですか? そんなの簡単に……」
言い終わる間もなく、アリアーゼはリオナの両手を掴んだ。
その目が、きらきらと輝いている。
「卵焼き、作れますの……!?」
「は、はい」
「もしかして、お裁縫も!?」
「ええ、まあ」
「お掃除は!?」
「……得意な、ほうです」
アリアーゼは、しばし、感極まったようにリオナを見つめた。
それから、その両手に力を込めた。
「リオナ。あなた、わたくしの先生になってくださいませんこと?」
「せ、先生!?」
「花嫁修業の、先生ですわ。どうか、この不束者に、お嫁さんの心得を、ご教授くださいまし」
リオナは目を疑った。王国最強の女騎士の肩書を持つお貴族様が、実家を飛び出してきた商家の娘に、頭を下げている。
変な人だ。とんでもなく、変な人だ。
でも。
夕闇の中、リオナは、隣に立つその人を、そっと見上げた。
この人は、リオナを女として見ない。政略結婚に売ろうともしない。ただ、困っていたリオナを助けて、こうして隣にいてくれる。
――こんな人に、守ってもらえたら。
ふと、そう思った。
戦う力もなく、家に振り回され、ずっと一人で怯えてきた。その心細さが、この人の隣では、不思議と溶けていく気がした。
「……分かり、ました」
気づけば、リオナは頷いていた。
「わたしでよければ、ご一緒します。旅の、お世話係として」
「まあ! 心強いですわ!」
ぱっと、花が咲くように、アリアーゼが笑った。
その笑顔があまりに無邪気で、リオナは、また少し、胸が鳴った。
それにしても、おかしな事を言う人だ。
王国最強の令嬢様と旅ができるなんて。心強いのは、どう考えてもリオナの方だ。
「では、これからよろしくお願いしますわね、リオナ先生。ふたりで、立派なお嫁さんになりましょう!」
アリアーゼにそう言われ、リオナは呆れた表情を浮かべた。
「アリアーゼ様。わたしは、お嫁さんにはなりたくないんですってば」
「あら。そうでしたわね」
つい今しがた聞いたばかりのはずなのに、この有様。
――この人、絶対にまた忘れる。
リオナは、早くもそれを確信した。
こうして。
お嫁さんになりたくて旅にでた最強令嬢と、お嫁さんになりたくなくて逃げてきた聖女は、旅の道連れになった。
もっとも、この時のリオナは、まだ知らない。
この出会いが、かけがえのないものになることを。
お嫁さんになりたい最強令嬢と、お嫁さんになりたくない元聖女のコンビ誕生!
次回、アリアーゼは花嫁修業の旅に出た理由を語ります。




