お嫁さんになれると思ったのに
王宮の大広間に、楽団の音が流れていた。
シャンデリアの光の下、着飾った貴族たちが杯を交わし、あちこちで笑い声が弾んでいる。今夜は、王宮の舞踏会だった。
その中央に、ひときわ人目を引く女が立っていた。
アリアーゼ・フォン・ローレンス。
二十四歳。
見慣れた甲冑ではなく、深い藍のドレスをまとっていた。
背は高く、背筋はまっすぐで、立ち姿に一分の隙もない。
だが、その周囲には、奇妙なほど人がいなかった。
「……まあ。よく顔を出せたこと」
「粗野なお方だもの。剣ばかり振って、淑女の嗜みひとつ知らないとか」
扇の陰で、令嬢たちが囁き交わす。
いつの頃からか、社交界にはそういう空気が流れていた。
やがて、王太子が広間の中央へ進み出た。
ざわめきが、すっと引いていく。
そのかたわらには、可憐な令嬢がひとり、寄り添っていた。
「王太子シュレム・フォン・グランベルの名において宣言する。アリアーゼ・フォン・ローレンスとの婚約を、ここに破棄する」
どよめきが走った。
王太子は令嬢の肩を抱き寄せ、その頬に手を添えた。まるで壊れ物を扱うように。アリアーゼへ向けるものとは、まるで違う手つきだった。
「私は、この娘、ナターシャ・フォン・キルニエミを妻に迎える。すでに、私の子を宿しているのだ」
ナターシャが、しなだれかかるように王太子へ身を寄せた。
伏せた睫毛。頬の朱。恥じらう仕草は、どこまでも可憐だった。
「アリアーゼ様。どうか、わたくしを悪く思わないでくださいまし」
王太子はアリアーゼに向き直った。その目には、隠しきれない苛立ちがあった。
「お前は、強すぎる」
吐き捨てるような口ぶりだった。
「剣を握れば誰より頼もしい。だが、お前の隣に立つたび、私が守られているようで惨めだった。――お前を女として愛することなど、ついぞできなかったよ」
玉座のほうで、衣擦れの音がした。
病を押して出席していた国王が、ゆっくりと身を起こす。
その目は、アリアーゼではなく、令嬢の腹のあたりに注がれていた。
「すまぬ、アリアーゼ。……王家の血を、絶やすわけにはいかぬのだ」
国王は、両親を失った自分を引き取り、育ててくれた人だった。
期待に応えたくて、この十年、騎士団に所属して国を守った。騎士団長になって、王国最強の騎士とも呼ばれた。
その全部が、たった数言で脇へ置かれた。
アリアーゼは、静かに一礼した。
そして、まっすぐに令嬢を見て、微笑んだ。
「ご懐妊、心よりお慶び申し上げますわ」
その声に、皮肉の色はひとつもなかった。
新しい命が宿った。
それだけで、アリアーゼには祝福する理由として十分だった。
「王国と、王太子殿下のご決定を、謹んで尊重いたしますわ」
取り乱しもせず、声を荒らげもせず、涙ひとつ見せなかった。
ドレスの裾をひるがえし、まっすぐに歩み去っていく。
侮蔑のささやきの中でも、凛と伸びたその背は最後まで揺るがなかった。
唯一、壁際に控えた数人の騎士だけが、うつむいて拳を握っていた。
アリアーゼの背中が扉の向こうへと消えた。
◇
ドレスを脱ぎ、いつもの軽装に着替えたアリアーゼは、厩から愛馬を引き出し、ひらりとまたがった。
手綱をさばき、王宮の門を静かに抜けていく。
背筋を伸ばし、凛と馬を駆る。夜風が、彼女の髪をなびかせる。
月光に浮かぶ馬上の姿は、一幅の絵のようだった。
やがて街道を外れ、丘の上に出ると、アリアーゼは馬を止めた。
星空の下、眼下には、王都の灯りが宝石を散りばめたように輝いている。
生まれ育った街。十年、守り続けた国。
それを、彼女は静かに見下ろした。
凛とした横顔が、ふと、歪む。
「うぅ……っ」
口の端が、こらえきれずへの字に曲がった。
大粒の涙が、ぽろりと頬を伝う。
「ふ……ふえ……ふえええええん……!」
涙が堰を切ったようにあふれ出す。
そして、アリアーゼは力いっぱい叫んだ。
「お嫁さんに! お嫁さんに、なれると思ったのにぃぃ!」
夜空に、少女のような泣き声が響く。
若くして騎士団長まで上り詰めた、王国最強の令嬢さま。
彼女の夢は――
『誰かのお嫁さんになること』だった。
◇
「ひっく。ひっく。ぐすん」
ひとしきり泣いて、アリアーゼは鼻をすすった。そして、馬上で真剣に考えはじめた。
なぜ、自分は婚約を破棄されたのか。
王太子が悪いのか。
――いや。あんなにお優しい方だ。違う。
国王陛下が悪いのか。
――まさか。育ての親に等しいお方だ。違う。
あの令嬢、ナターシャが悪いのか。
――子を宿した身で、健気に寄り添っていた。あんなに可愛らしい方が。違う。
では、何が。
どうして、お嫁さんになれなかったんだろう。
アリアーゼは腕を組み、さらに考え込む。
そのときだった。
アリアーゼの脳裏に、まだ見ぬ旦那様との甘い情景がおりてきた。
◇
『アリアーゼ』
まだ見ぬ旦那様が、優しく微笑む。
『君の作る卵焼きは、世界で一番おいしいよ』
「んへへ……」
思わず頬が緩む。
『今日も綺麗に洗濯してくれてありがとう。君は本当に働き者だ』
「んふふ……」
幸せそうに頬へ手を当てる。
『いつも掃除をしてくれてありがとう。君のおかげで、家はいつも綺麗だ』
「えへへ……」
そこで、ふとアリアーゼの笑顔が、止まった。
「……あら?」
しばらく考える。
「そういえば……わたくし、卵焼き、作れましたかしら?」
さらに考える。
「洗濯なんて……したことございませんわ」
もう一度考える。
「掃除も……侍女任せでしたわね」
しばらく沈黙した。
やがて、アリアーゼは真剣な顔で口を開いた。
「そうだわ! 花嫁力だわ!」
ぐっと拳を握る。
「わたくしには、花嫁力が、足りなかったのですわ!」
涙は、もう乾いていた。
まだ見ぬ、いつかの旦那様。
仕事から帰ってきたその人を、エプロン姿で出迎える自分。
『おかえりなさい、あなた』
『ただいま。いい匂いだ。今日も君の手料理が楽しみだよ』
「んふふ」
食卓には、湯気の立つごちそうが並んでいる。
そのかたわらでは、小さな子どもが二人、はしゃいでいる。
『とうさま! かあさま!』
『わあい』
妄想しながら、アリアーゼは、だらしなく頬を緩めた。
「……うへあ」
うっとりと宙を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、ぱちん、と両の頬を叩く。
「よし。決めましたわ。花嫁修業をいたしましょう。立派なお嫁さんになる修業です」
言ってから、はたと気づく。
「修業といえば旅ですわ。でも、騎士団長のままでは、修業の旅には出られませんわね」
◇
翌朝。
騎士団の詰所に、一枚の書状が置かれた。
辞表である。
「……団長。本気なのですか」
副団長のガレムは、苦渋の表情を浮かべた。
「ええ。本気よ」
「婚約破棄された、その辛いお気持ち、よくわかります。ですが、どうかお考え直しいただけませんか?」
ガレムは、唇を噛み締めた。
「我々は、団長を心から尊敬しております。団長がおられぬ騎士団など……」
ガレムは言葉を詰まらせた。
「いいえ。わたくしの決意は変わりません」
アリアーゼは、きっぱりと言った。
「わたくしには、やらなければいけない事ができたのです」
「……それは、何でございますか」
ガレムが静かに尋ねると、アリアーゼは、晴れやかな笑顔で答えた。
「まだ見ぬ旦那様のために、立派な卵焼きを作る事ですわ!」
「…………」
「そのために、花嫁修業の旅に出ますの」
「えっと?」
「では、ごきげんよう」
アリアーゼは軽やかに踵を返し、そのまま詰所を後にした。
残されたガレムは、しばらく扉を見つめたまま動けなかった。
「……団長がおかしくなられた」
その日、グランベル王国騎士団は大混乱に陥った。
アリアーゼ・フォン・ローレンス。二十四歳。
婚約破棄された。そして、花嫁修業の旅に出た。
──その旅先で、とある『可哀想な聖女』の運命を激変させてしまうことも知らずに。
第1話をお読みいただき、本当にありがとうございます!
婚約破棄されても、最後まで誰かを祝福できるアリアーゼ。
そんな彼女は花嫁修業の旅を決意しました。この先どんな幸せを見つけていくのか、ぜひ見届けていただけたら嬉しいです。
次回、運命的な出会いがあります。




