はじめてのちゅう
「ただいま戻りましたー」
玄関の扉が開き、リオナの声が響いた。
「おかえりなさい、リオナ!」
ぱたぱたと駆け寄ってきたアリアーゼが、ぴたりと目の前で立ち止まる。
「え?」
アリアーゼは真剣な表情で、そっと、目を閉じた。そして、ほんの少しだけ、唇を前へ突き出した。
「……アリアーゼ様?」
リオナはわけがわからず、戸惑う。
「リオナ」
「は、はい?」
アリアーゼは、真剣な目をしている。
「練習ですわ」
「……はい?」
アリアーゼが、一歩、また一歩と、距離を詰める。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「大丈夫ですわ。これは、花嫁修業ですもの」
「え? ええっ?」
アリアーゼの手が、リオナのあごをぐいっと引き寄せた。
「ひゃああああっ!!」
ぱぁんっ!!
乾いた音が、家中に響いた。
アリアーゼは、頬を押さえたまま、きょとんとしている。
「……なぜ、叩かれましたの?」
リオナは、耳まで真っ赤だった。
「わ、わたしにも、分かりません! いきなり何をするんですか!」
「だから、練習ですわ」
アリアーゼの声は真剣だった。
「何の練習ですか!」
「いってらっしゃいと、おかえりなさいの、ちゅう、ですわ。夫婦とはそういうものでしょう?」
アリアーゼが、リオナを見つめる。その目は、どこまでも真剣だった。
「リオナだって、お嫁さんになれば、いってらっしゃいの、ちゅう、をするはずですわ」
リオナはぷんぷんと、足を踏み鳴らした。
「もうっ! わたしは誰のお嫁さんにもなりません! 何度も言わせないでください!」
そんなリオナの様子に、アリアーゼはしょんぼりと肩を落とした。
「そう、でしたわね……」
その表情は、ひどく寂しそうだった。
「ああ、どうしましょう。わたくし、まだ見ぬ旦那様に嫌われてしまうと思うと……耐えられませんわ」
その声は、今にも泣き出してしまいそうなほど、弱々しかった。
「ちゃんと、『おかえりなさい』も、『いってらっしゃい』も言えて……ちゅうも、上手にできるお嫁さんになりたいのです」
リオナは、思わず言葉を失った。
アリアーゼは本気だった。からかっているわけでも、冗談でもない。
ただ、理想のお嫁さんになりたくて、一生懸命なのだ。
「もうっ!」
リオナは、頭を抱えた。
やけくそになったように叫ぶ。
「わかりましたから! 練習にお付き合いしますから! だから、そんな顔しないでください!」
そのとたん、ぱっと、アリアーゼの表情が明るくなった。
「本当ですの!? ではよろしくお願いしますわ」
アリアーゼは、すっと姿勢を正した。
「おかえりなさい、あなた」
そう言って目を閉じ、唇を突き出す。
「え、ちょ、まだ心の準備が――」
「リオナ」
優しく微笑む。
「ただいま、アリアーゼ、と返してくださいまし。よろしくて?」
「は、はい。わかりました……」
リオナはもうどうにでもなれ、と思った。
「おかえりなさい、あなた」
「た、ただいま……アリアーゼ」
二人は、ゆっくりと距離を縮める。そして。
ちゅ。
唇と唇が、静かに重なった。やがて、静かに離れる。
リオナの心臓は、今にも飛び出しそうなほど、激しく鳴っていた。
(ど、どうしよう……アリアーゼ様と、ちゅう、しちゃった……)
顔が熱くて、どうにかなりそうだ。
(わ、わたしの、はじめての、ちゅう……や、ヤバい、ヤバい……)
真っ赤になったまま、恐る恐るアリアーゼの顔を見る。
アリアーゼは顎に手を当て、真剣な表情で考え込んでいた。
「ふむ。長さは今くらいでちょうどいいかしら。唇はもう少し柔らかくした方が、よさそうですわ。それと――」
何やらブツブツとつぶやいている。
一呼吸置いて、アリアーゼは真剣な眼差しでリオナを見つめた。
「リオナ!」
「ひ、ひゃいっ!」
リオナは反射的に返事をした。
「さっきのは、いまいち納得がいかなかったので、もう一回ですわ」
アリアーゼが再び、一歩、距離を詰める。
リオナは思わず、一歩、後ずさった。しかし、アリアーゼも、また一歩、追いかける。
(助けて! このままでは、わたし、どうにかなってしまいます!)
リオナの内心の叫びをよそに、その肩にアリアーゼの手がかかった。
◇
4回目までは数えていた。後のことは、もうわからない。
ようやく解放された頃には、リオナはふらふらだった。心なしか、頭から湯気が出ているようにも見える。
「なかなか、うまくなったと思いますわ」
アリアーゼは、満足そうに頷いた。
「そ……それは……ようございました……」
リオナは、魂が抜けたような声で答える。
今にも倒れそうな足取りで、自室へ向かおうとした、その時だった。
「リオナ!」
「……はいぃ……」
呼ばれて、力なく返事をする。
アリアーゼは真剣な顔で、小首をかしげた。
「舌は、入れた方が、いいのかしら?」
その瞬間。リオナの瞳に力が戻った。
「もうっ! いい加減にしてくださいいいっ!!」
ぱぁんっ!!
乾いた音が、丘の上の家に響き渡った。
「……あの二人、なにやってるんすかね?」
窓の外から二人の様子を眺めていたアッチムは、ボソッとそれだけつぶやいた。
今日も、丘の上の家は、平和だった。
――この日を境に、リオナの世界は、ほんの少しだけ変わり始めた。
第二章「伝説の卵編」はここまで。リオナの世界が、少しだけ変わり始めました。
次回からは第三章。今度は"伝説の包丁"を求めて、新たな花嫁修業が始まります!




