おかしな妄想
まだ、朝の空気が、ひんやりと残る時間だった。
「おはようっす」
眠そうに大きな欠伸をしながら、人の姿のアッチムが台所に入ってきた。手には、白い卵が二つ。
「これ、今日の分の卵っすよ」
「おはようございます。アッチム様。ありがとうございます」
リオナは両手で、その卵を受け取った。
「そのアッチム様っていうの、堅苦しいっすねぇ」
アッチムは、椅子にどさりと、腰を下ろした。
「まあ、リオナらしくて、いいっすよ」
その言い方には、呆れたような、でも、どこか面倒見のいい温かさがあった。
「それより」
アッチムが、辺りをきょろきょろと見回す。
「アリアーゼは、どこっすか? まだ寝てるんすか?」
「アリアーゼ様なら、朝の鍛錬ですよ」
「なるほどっす」
アッチムは、一つ頷いた。
「あの人、伝説級に強いっすもんね」
「……そういうの、分かるんですか?」
リオナが思わず尋ねる。
アッチムはいつも、こんなにも気だるげで、飄々としているのに、時折こうして鋭い一言をこぼす。
「聖獣様を、馬鹿にしちゃ駄目っすよ」
アッチムは少しだけ、胸を張った。
「ところで」
アッチムが、椅子の背にぐいっと寄りかかる。
「二人は、ちゅーくらい、してるんすか?」
「――っ!」
リオナの手から、危うく卵が落ちそうになった。
「わ、私たちは、そういう関係じゃありませんから!」
声が思わず大きくなる。
「じゃあ、ハグとかしてるんすか?」
「してないです!」
リオナは、即座に首を横へ振った。
「手をつないだりとかは?」
「しません!」
食い気味に答える。
アッチムは、にやにやと口元を緩めたまま、面白そうにリオナを眺めていた。
「へー。それじゃあ」
そう言うと、少しだけ身を乗り出す。
「一緒のベッドで寝たりとか、しないんすか?」
その瞬間、リオナの動きがぴたりと止まった。
受け取ったばかりの卵を抱えたまま固まり、視線が泳ぐ。
「……それは、その……」
小さく唇を動かす。
「……してます」
消え入りそうな声だった。
頬がみるみる赤く染まり、耳まで真っ赤になる。
「おっ」
アッチムの目が、きらりと光った。
「意外と進んでるじゃないっすか」
「ち、違います!」
リオナは、慌てて首をぶんぶんと振った。
「ベッドが一つしかないだけです! それに、寝るだけですから! 何もありませんから!」
アッチムは、含み笑いを浮かべた。
「ほんとっすかねぇ。だったら、別々にベッドを買えばいいじゃないっすか」
「……それは、その……」
リオナは、困ったように視線を逸らした。
「アリアーゼ様が、許してくれなくて……」
「へいへい。お熱いっすねぇ」
アッチムは、にやにやと笑いながら肩をすくめる。
リオナは、それ以上何を言っても墓穴を掘る気がして、ぎゅっと卵を抱きしめたまま口をつぐむしかなかった。
ちょうど、その時。
「ただいま帰りました。いい汗、かきましたわ」
玄関から、アリアーゼの声が響いた。
鍛錬を終えたその頬は、うっすらと上気していて、いつもより少しだけ生き生きとしている。
「うふふ。聞いてくださる? 小川の向こうのボンズ夫妻はとっても仲良しですのよ。ご主人がいってきますのちゅうをしておりましたわ」
アリアーゼは目を輝かせながら言った。
「さてと。汗を流したら、朝食を作りますわね」
アリアーゼは鼻歌を歌いながら、そのままお風呂場のほうへ歩いていく。
「わたくしが、美味しい卵焼きを、作って差し上げますわ」
その足取りは軽く弾んでいた。
「……あの人、卵焼き作れるようになったんすか?」
アッチムがリオナのほうを振り返る。
リオナは何も言わず、ただ、静かに首を横に振った。
その後。
アリアーゼが作った朝食は、なぜかスクランブルエッグであった。
◇
陽の光がある程度高くなった、昼前のこと。
居間の窓際で、アリアーゼは静かに本を読んでいた。
その傍らではアッチムが、椅子にだらしなく寄りかかりながら、陽気な旋律を鼻歌で口ずさんでいる。
のどかな時間が流れていた。
「それでは私は、村内会の会費を納めに、行ってまいります」
リオナが小さな革袋を手に、玄関で振り返った。
「それなら、うちもちょっと、山の様子を見に行ってくるっす」
アッチムも、そう言って小さく伸びをすると、ポンッと鳥の姿になった。
「まあ。二人とも、いってらっしゃいな。気をつけるのですよ」
アリアーゼは、本からちらりと目を上げて、そう言った。
二つの足音が遠ざかり、扉が閉まった。
静かになった部屋で、アリアーゼは、ふと、本を膝の上に置いて遠くを見つめた。
――もし、これが、まだ見ぬ旦那様だったなら。
◇
『アリアーゼ』
『はい、あなた』
アリアーゼとまだ見ぬ旦那様が優しく見つめ合う。
『仕事に行ってくるよ』
『お気をつけくださいまし』
旦那様の手が、アリアーゼの肩にかかった。
『……』
『……』
しばらく間が空いて、旦那様が口を開いた。
『いってきますの、ちゅう、だね』
『は、はい!』
二人の距離が、ゆっくりと縮まっていく。
あと少しで、唇が――
「――はっ!」
アリアーゼは、勢いよく立ち上がった。
「練習が必要ですわ!」
家の中に、その声が響き渡った。
花嫁修業は、まだまだ続きます。
次回、アリアーゼが始めた"ある練習"に、リオナは大混乱!?
※ぜひ第15話もお楽しみください!




