第三十一話、凍土の葬列 白狼の意思
連休最終日、2話連続更新です。こちらは2話目になります。
先にここから読んだ方は、1話前にお戻りください。
里を包囲していた「白銀の軍勢」が、遺跡の消滅によって一時的な混乱に陥る中、一行は里外れの小さな氷窟に身を潜めていた。
焚き火の爆ぜる音だけが響く静寂の中で、アッシュは石像のように座り込んでいた。
三つの理を束ね、未知の第三の選択をした彼━━、その右手には禍々しくも美しい幾何学模様の文様がきざまれている。
だが、その頭を垂れた青年の瞳には、もはや意志の光はない。
自分を『アッシュフォード・グローリア』たらしめていた記憶のすべてが、神域への昇格という激流に押し流され、ただ生命を維持するためだけの『空白の器』がそこにあるだけだった。
「お兄ちゃん、寒くない? ……これ、あったかいよ」
ククルが、自分の防寒着をアッシュの肩にかけ、その冷たくなった右手を両手で包み込んだ。
━━━彼女はアッシュの表情が変わらないことを知っている。自分が誰だか分かっていないことも理解している。
それでもククルは、彼の膝に自分の頬を預け、必死に体温を伝えようとしていた。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。私がずっとここにいるから。お兄ちゃんが私の名前を忘れちゃっても、私が毎日教えてあげる。
……私が、お兄ちゃんの『記憶』になるから」
ククルの背中には、アッシュの鎖と対になるような「光の翼」の紋章が淡く発光していた。
彼女は彼から多くのことを学んだ。
アッシュに守られるだけの子供でいることは、彼にすべての重荷を背負わせ、その心を削り取ること。
ククルはアッシュの手を握る力を強め、その瞳に、幼い純真さを超えた「共にある」という強い光を宿していた。
その光景を、少し離れた闇の中から見つめる者がいた。
「……主殿」
シオンは、自らの震える指先を隠すように強く握りしめていた。
二度目の旅。一度目の終わりを知る彼女にとって、この光景は既視感以上に残酷な絶望だった。
(……なにもできなかった。………時間を巻き戻し、魔力も未来もすべてを捨てて、あの日、氷の底で冷たくなった主殿を、私はこの陽だまりへ連れ戻したはずだったのに)
シオンの内にあったのは、慟哭にも似た自責だった。
アッシュを救うために「記憶の消失」という代償を払わせたのは、自分の結果ではないのか。━━私は彼を「生かす」ために、彼の「魂」を殺してしまったのではないか。
感情を殺す訓練を受けてきたはずの暗殺者の頬を、熱い涙が音もなく伝い、氷の床へと落ちていく。
「(………シオン)」
「っ?!!」
ふいに、アッシュの虚ろな瞳が、わずかにシオンの方へと向けられた。
そこに認識の光はない。ただ、彼女が流した涙の「熱」に、深淵の底に沈んだアッシュの本能が反応したかのような、刹那の揺らぎ。
(………もし、この世界に主殿を呼び戻す方法があるのなら)
シオンは涙を拭い、おもむろにに立ち上がる。
その瞳に宿ったのは、絶望を燃料にした冷徹な決意と希望。
アッシュという「空白の英雄」に心を取り戻すためなら、彼女は三度、自らのすべてを投げ出す覚悟を決めた。
「……必ず、連れ戻します。……貴方が、貴方のままで笑える場所へ」
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シオン達が遺跡に仕掛けられた罠を解き、一行が再び現世へと戻された時、氷狼の里は「白銀の秩序」による蹂躙の真っ只中にあった。
遺跡の門の前、そこには崩れ落ちた永久凍土の瓦礫を背に、一体の巨躯が座したまま動かずにいる。
━━━里の長、ガレフ。その全身には、ルキウスの軍勢が放った魔導弾の焦げ跡と、幾筋もの白銀の槍が突き刺さっている。
だが、その背中の向こう側、遺跡の入り口の物陰には、震えながら身を寄せる里の幼い獣人の子供たちの姿があった。
「………あいつ、最後まで不器用な真似を」
スレインは、父の亡骸の前に立ち尽くした。
雪煙が舞い、ガレフの白銀の毛並みを白く染めていく。里の掟を何よりも重んじ、弱さを「不浄」として切り捨ててきた男。
息子であるスレインさえも、里の秩序のための「駒」として扱い、確執の果てに決別したはずの父親。
スレインはゆっくりと膝をつき、父の冷たくなった掌の中に、昔ガレフ自身が投げ捨てたはずの「雪豹族の古い護符」が握られているのを見つけた。
「………結局、あいつには何も言い返せなかったな」
確執、憎しみ、そして心の奥底に封じ込めていた僅かな憧憬。
ガレフは、アッシュを遺跡へ誘い込むことでルキウスもろともを排除しようとした。その思惑は間違いなく「冷徹な長」としてのものだった。
━━━しかし、最期に彼が盾となって守ったのは、里の未来である子供たちだったのだ。秩序を貫くことでしか愛を形にできなかった、不器用な男の最期の結末。
スレインは父の、見開かれたままの青い瞳を、その手で静かに閉じさせた。
「……里は、私が引き受ける。あいつが守りたかった『秩序』ではなく、ミラが……母上が愛した、この里の『温もり』をな」
スレインの指先が、ガレフの首にかけられていた【氷狼の重印】に触れる。それは里の長の証であり、代々受け継がれてきた重い責任の象徴だ。
スレインはその重印を引きちぎるように受け取ると、自らの首へと掛けた。
「だが、今はまだ……あの馬鹿な人間に貸しがある。………あいつが『自分』を取り戻すまで、この剣を里の守りだけに使うわけにはいかない」
背後では、リネットとシオンが、記憶を失い「空っぽの器」となったアッシュを必死に支えている。スレインは振り返らず、白銀の吹雪が吹き荒れる北の空を仰いだ。
父を埋葬する暇さえない。ルキウスの増援が来る前に、先ずは残りの民を導いて、すぐにこの地を離れなければならない。
彼は今日、父の名を継ぎ、同時に父を超えていくことを決意した。
かつての彼は、死に場所を求めて彷徨う「孤独な白狼」だった。
しかし今、その背中には里の未来と、そして「アッシュ」という名の、あまりに脆く大切な絆が背負われていた。
「行くぞ。……あいつを、ただの偶像になんてさせない」
スレインは双剣を力強く鞘に収め、一行の先頭に立って地を蹴った。
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