第五章・第二十九話、断絶の特異点・氷鏡の開門. そして零れ落ちる記憶
今日は2話連続更新です。こちらは2話目になります。
先にここから読んだ方は、1話前にお戻りください。
四日目の朝。氷狼の里の最奥、天を突くような永久凍土の門の前。
朝靄に包まれた広場で、ガレフは一行を待っていた。その横には、光輝く【氷鏡の鍵】が祭壇に安置されている。
「……来たか。三日間の休息は十分だったか、勇者よ」
ガレフの問いに、アッシュは新たな防寒装備の襟を正し、静かに頷いた。
「ああ。おかげさまで、体も紋章も、これ以上ないくらいに馴染んでる。……みんなも、準備は万端だ」
「……フン、相変わらず甘い顔をしているな。だが、その甘さがどこまでこの極寒の深淵で通用するか……見せてもらうぞ」
ガレフは不敵な笑みを浮かべると、一切の迷いなく祭壇に手をかけた。スレインは氷の双剣の柄に手をかけ、父の背中に鋭い視線を送るが、ガレフはそれを無視して【氷鏡の鍵】を掲げた。
「……氷鏡の鍵よ、眠れる精霊の吐息を解き放て」
鍵が放つ青銀の輝きが、永久凍土の壁を透過していく。直後、数千年の間、万物の侵入を拒んできた巨壁が、内側から溶解し、地響きと共に崩れ落ちていった。現れたのは、凍てついた時間そのものを封じ込めたかのような、不気味なほどに静謐な回廊だった。
「すごい……これが、遺跡の内部……」
ククルがアッシュの手を強く握りしめる。リネットは端末の数値を睨み、その「異常な魔力濃度」に顔を蒼白にした。
「……アッシュ。何かがおかしい。まるで、ここだけ世界が『止まっている』みたいよ」
シオンは最後尾で周囲の影を警戒していた。彼女の瞳には、かつての「旅」で見た地獄の光景が、既視感として重なっている。
「……ついてこい。貴様らが求める『答え』は、この奥に眠っている」
ガレフは振り返ることもなく、暗い回廊へと足を踏み入れた。
罠であることは、その場の誰もが直感していた。だが、この氷壁を越える手段が他にない以上、一行に選択の余地はない。
アッシュたちは互いに目配せをし、意を決してその暗がりへ飛び込んだ。
最後の一人が門を越えた瞬間、
背後で「音」が消えた。
「えっ……?!」
振り返れば、つい数秒前まで朝日を浴びて輝いていた氷狼の里の光景は、厚い氷の壁の向こうへと掻き消えていた。そこにあるのは、入口ですらない。
ただ、数千年の歳月が凝縮されたような、冷徹な「無」の壁だった。
「……門が、消えた?」
アッシュの呟きは、濃密な冷気に吸い込まれ、白い霧となって霧散した。
一行が進む回廊は、床も壁も天井も、すべてが青白く発光する氷で構成されていた。だが、それはただの氷ではない。一千二百年前、世界が分断されたその瞬間の「時間」が、物理的な質量を持って凍りついたものだ。
「ちょっと……私の端末、エラーしか吐かないわよ! 空間密度が異常、座標軸が多重に重なり合ってる……。ここ、現世じゃないわ。物理法則が書き換わった『閉鎖特異点』よ!」
リネットが悲鳴に近い声を上げ、忙しなくデバイスを叩く。彼女の瞳には、かつてないほどの戦慄が宿っていた。
スレインは氷の双剣を抜き、先導する父ガレフの背中を、射殺さんばかりの眼光で睨みつけていた。
「……ガレフ。貴様、どこへ連れて行くつもりだ。ここは、遺跡の深部などではない。……生きたまま魂を削り取られる、凍土の牢獄だ」
ガレフは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
その瞳には、かつて息子に向けたわずかな情愛さえも残っていない。
遺跡の冷気と同化したかのような、無機質な青い光がその眼窩を支配していた。
「……『不浄』を『秩序』へ還すには、まずその存在を無に帰さねばならぬ。アッシュ・グローリア。
貴様の持つ紋章は、この凍りついた時計の針を動かすための、唯一の『贄』なのだ」
ガレフの宣告と共に、遺跡の壁から無数の白銀の鎖が、蛇のように蠢きながら溢れ出した。それはルキウスの軍勢が使う魔導兵装を、遺跡のエネルギーが模倣し、進化させたものだった。
「――っ、主殿、離れてください!!」
背後にいたシオンが叫び、アッシュを突き飛ばす。
彼女だけは知っていた。かつて、一度目の旅でアッシュが命を落とした場所。その崩壊の始まりは、まさにこの「白銀の鎖」が、アッシュの記憶を喰らい始めた瞬間だったからだ。しかし━━━、
「……あ、……が……ッ!?」
突如、右手の紋章を襲った凄まじい激痛にアッシュは悶絶し、膝をついた。
三つの属性(土龍・風雅・日輪)が、自らの意志で強制的に共鳴を開始する。
遺跡のエネルギーが、アッシュの魂の階位を強引に引き上げようと、彼の「人間」としての大事なものを燃やし始めたのだ。
――カナンでククルを救った記憶。
――連峰で風と一体になった高揚感。
――そして、じいちゃんの、最後の言葉。
それらの記憶の断片が、光の粒子となって右手から吸い取られていく。
━━アッシュは、自分が誰なのか、━━なぜここに立っているのかという「足場」が、音を立てて崩れ去っていく恐怖に、慄いていた。
「シオン……俺、は……」
「っ……させません。二度目は、決して……ッ!!
主殿………思い出してください! 私が誰なのか、あなたが何のために立ち上がったのかを!!」
シオンが広げたのは漆黒の黒い巻物――
それは一度目の旅の終わりに、滅びゆく翼人種の禁書庫から盗み出した『回帰の典籍』。
彼女はアッシュから零れ落ちる記憶を、自分の魂を器にして強引に受け止め始める。
アッシュが忘れるたびに、シオンがその記憶を肩代わりし、彼の代わりに「アッシュの痛み」を背負う。
「………私の身体も、存在も、すべてあげる。だから……彼を、アッシュを壊させないで………」
シオンの肌にひび割れのような紋様が浮かび上がる。
彼女が願いを祈る度、彼女の存在をこの世からすこしづつ削り取っていく。
「……ぁ、……っ……!」
アッシュの右腕から溢れ出す黄金の粒子、
━━それはククルと笑い合った日々であり、
━━スレインと刃を交えた熱量であり、彼を彼たらしめる「生」の証そのもの。
それがシオンの掲げる『回帰の典籍』へと吸い込まれるたび、彼女には、時空の歪みに引き裂かれたような、黒い亀裂が深く刻まれていく。
シオンの視界は、すでに自分のものではなくなっていた。
流れ込んでくるのは、自分のものではない記憶。
(温かい……。これが、主殿が見てきた世界……。これが、彼が守ろうとした人たちの……輝き……)
アッシュが記憶を失い、その瞳から光が消えるのと引き換えに、シオンの心は彼が愛した世界の色で満たされていく。
それは『因果の報い』。
一人の人間が、他者の人生と時間の重みを全て肩代わりするなど、神への冒涜に等しい。
「シオン、やめろ……! お前の体が、消えて……っ!」
スレインが叫び、彼女を抱きとめようと手を伸ばす。
だが、その手は空しく彼女の体を通り抜けてしまう。
今のシオンは、この世のものではない。過去と未来の狭間に漂う、ただの「現象」へと成り果てようとしていた。
「……いいんです、スレインさん……。私は、このために……あの日、決めたんです……」
シオンの唇から、鮮血ではなく、青白い光の粒が零れ落ちる。
記憶を肩代わりするたびに、彼女自身の記憶――自分が誰であったか、アッシュをどう思っていたかという「シオン自身の記憶」が、上書きされ、消えていく。
魂の抜け殻となりかけたアッシュの右手の紋章は、シオンの犠牲によって得た「偽りの記憶」により、遺跡のシステムと最悪の共鳴を始めていた。
「……させ、ない……っ!!」
シオンは、いまにも消えゆくその腕で『回帰の典籍』を自らの胸に押し当てた。
彼女が選んだのは、アッシュの記憶を守ることだけではない。
一度目の旅でアッシュが最後に放った「未完成の属性」を、自分の命を犠牲にして、無理やりこの瞬間のアッシュに「返還」しようというのだ。
「思い出して、アッシュ……! あなたは……あなたは、私を……っ!」
シオンの存在が、一際強く発光し、「パキリっ」と音を立てて空間に亀裂が走った。
そして、シオンの絶叫に呼応するように、もう一つの小さな叫びが氷の回廊に響き渡る。
「お兄ちゃんを……アッシュお兄ちゃんを、連れて行かせないッ!!」
恐怖に震えていたはずの小さな兎獣人の少女は、今、その華奢な足で凍てつく床を強く踏み締めていた。
彼女の周囲には、ヴァダール族の下位者には決して現れるはずのない、黄金の「日輪」に似た光の波動が渦巻いている。
「ククル……!? 下がって、あなたまで消えてしまうわ!!」
リネットの制止も、今の彼女には届かない。ククルはアッシュの右手に必死に縋り付いた。
白銀の鎖が、アッシュの記憶を吸い取るために蛇のように首をもたげる。
ククルは自身の「生命力」そのものをぶつけた。
「シオンさんが守った記憶……私が、お兄ちゃんの中に繋ぎ止める! 離さない……絶対に離さないんだからぁぁ!!」
アッシュから零れ落ちようとする大切な記憶。
それをシオンが外側から禁忌の『回帰の典籍』で受け止め、ククルが内側からその魂に必死に押し戻す。
二人の少女が、自らの命を削りながら、アッシュという一人の少年の存在をこの世界に繋ぎ止めていた。
もう、ダメかと思った――その時だった。
アッシュの指先が、わずかに、だが確かな意志を持って動いた。
彼は震える手で、自分のために泣きじゃくるククルの頭をそっと撫で、そして顔を歪めるシオンの頬を優しくなぞる。
「…………」
頬を伝うシオンの涙を感じた瞬間、アッシュの瞳に、かつての鋭い意志の光が宿った。
シオンが守り、ククルが繋ぎ止めた記憶。それがアッシュの中でつぎはぎながらも記憶を築いていく。
だが、アッシュは知っていた。
この場に残された選択肢――ガレフの望む「贄」になるか、ルキウスの強いる「秩序」に屈するか。
そのどちらを選んでも、待っているのは歪んだ平和でしかないことを。
アッシュは二人を安心させるように、穏やかに、しかし力強く微笑んだ。
「……もう、大丈夫だ」
掠れた声で、彼は語りかける。
「二人とも……ありがとう。……少しだけ、行ってくるよ」
アッシュは二人を優しく突き放すと、ガレフでもルキウスでもない、━━━「第三の選択」をえらんだ。
右手の紋章が、黄金でも白銀でもない、見たこともない「純白」の輝きを放ち始める。それは因果の螺旋を内側から食い破り、世界の理そのものを書き換える未知の光だった。
「お兄ちゃん!!!」
「アッシュ!!!」
二人の叫びが届く前に、アッシュの全身が光の粒子へと変わっていく。
溢れ出した圧倒的な光の奔流が、凍りついた特異点を内側から飲み込み、全てを白濁した虚無へと塗り潰していった。
光が収束し、視界が晴れたとき。
そこにはもう、アッシュ・グローリアという少年の姿はどこにもなかった。
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