間章・第二十八話、境界の灯火・小さき者の決意あるいは希薄なる残響
本日も二話連続更新です。こちらが一話目になります。続きは昼(11:30)頃更新となります。
客舎の居間。暖炉の爆ぜる音が、外の吹雪を忘れさせるほどに温かく部屋を包んでいた。アッシュたちが大人たちの深刻な対話に没頭する傍ら、ククルとテオは火を囲んで座り、互いの故郷の話に花を咲かせていた。
「へぇ、カナンには『熊まんじゅう』なんてお菓子があるのか。……俺たちの里にあるのは、凍らせた干し肉か、あとは精々『雪兎の燻製』くらいだけど……」
テオは顔を真っ赤にしながら、ククルの語る未知の「甘味」の話に必死に耳を傾けていた。ククルが楽しそうに笑うたび、テオの尻尾は本人の意志とは無関係に、左右に千切れんばかりに振れている。
「……あとね、テオ。お兄ちゃんが遺跡で助けてくれたとき、すっごくかっこよかったんだよ! 怖いはずなのに、絶対にあきらめないの。あの日、お兄ちゃんが私に『勇気』を教えてくれたんだ」
ククルがアッシュの強さを、その眩しさを語るたび、テオの胸の奥には、鋭い対抗心と僅かな「くやしさ」が刺さる。テオにとって、アッシュは憧れの対象であると同時に、ククルの心に最も深く刻まれた「英雄」という高い壁でもあった。
「……そ、そうか。やっぱり、そのアッシュって人はすごいんだな。……俺も、もっと鍛えれば、いつかそんな風に……」
テオは震える手を膝の上で握りしめた。ククルを応援したい、守ってやりたいという純粋な想いは、今の自分とアッシュとの圧倒的な距離を前に、小さな疼きとなって彼を突き動かしていた。
しかし、不意にククルの笑顔が、暖炉の火に揺れるようにして翳った。
「……でもね。最近、お兄ちゃんの背中が、前よりもずっと寂しく見えるの」
ククルは、自分自身の小さな手を見つめた。
カナン、連峰、そしてこの氷の里。旅を続けるごとに、アッシュの右手の紋章は輝きを増し、その分だけ、彼は誰にも言えない痛みを背負い込んでいるように見えた。
「私、いつもお兄ちゃんに守られてばかり。お兄ちゃんが『理』に近づくたびに、どこか遠いところへ行ってしまいそうで……。
私、希望だって言われたけど、今のままじゃお兄ちゃんに負担を強いてるだけじゃないかなって」
ククルの瞳に溜まった涙は、弱さではなく、強い自責の念からくるものだった。
「……変わりたいの。変わらなきゃいけないんだよ、テオ。お兄ちゃんが傷つく前に、私がその隣に立てるくらい、強く……」
その切実な吐露に、テオは言葉を失った。アッシュへの嫉妬など、ククルが抱えるこの深い愛情と覚悟の前では、あまりに幼いものに思えたのだ。
「……ククル」
テオは、おずおずと、だが確かな意志を持ってククルの肩に手を置いた。
「俺は、詳しいことはわかんないし……アッシュさんみたいに凄くはなれないかもしれない。けど……ククルがそうやって頑張ろうとしてるなら、俺は全力で応援する。
……俺も一緒に強くなるから、そんなに悲しい顔をするなよ」
不器用な、しかしテオなりの最大限の誠実さ。ククルはその言葉に驚いたように顔を上げ、やがて瞳に溜まったものを拭うと、静かに、しかし力強く頷いた。
暖炉の火が静かに揺れる。
英雄の背中を追うだけでなく、自らがその背中を支えるための「光」になろうとする少女。
そして、その少女の志に自らの道を重ねようとする少年。
分断された世界の中心で、小さき者たちの芽吹きが、極寒の夜を静かに熱く焦がしていた。
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里の熱狂が吹雪に溶け、静寂が訪れた夜。シオンは一人、宿の屋根裏から凍てつく北の月を見上げていた。
腰まである艶やかな黒髪は、極北の風に吹かれて冷たく波打っている。その指先で、彼女は自分の掌をなぞった。月光が肌を通り抜け、
背後の瓦がわずかに透けて見える。
(……やはり、限界が近いのでしょうか)
シオンには、この旅路の始まりから魔力と呼べるものが一切残っていない。
あの絶望の終焉から、アッシュを救うために「時間の理」を強引に遡行(そこう)させたその瞬間、
━━━彼女の全ての魔力、そして「存在の重み」は対価として焼き切れたのだ。
今の彼女は、いわばこの世界に投影された、実体のない「記憶の残響」に過ぎない。
アッシュが今日、闘技場で放った『三理・鏡打ち(かがみうち)』。
本来の歴史――「一度目の旅」で彼が孤独に死んでいったあの時とは違う、仲間たちとの絆が生んだ奇跡。
それを見届けた瞬間、シオンの胸には喜びと同時に、自分という影が薄れていくような虚無が広がっていた。
(主殿が正しい未来へと進むたび、この世界を騙し続けている私の『虚像』は、整合性を失い消えていく……)
彼女は、自分が時間を巻き戻した張本人であることを誰にも話していない。ましてや、アッシュの記憶を削っている「紋章の昇格」の代償が、実は彼女の存在そのものと連動していることなど、夢にも悟らせるわけにはいかなかった。
「……主殿。貴方は、お優しい人だ」
不意に、暗闇の中で独り言ちた。
アッシュは、出会ったばかりの自分に、
殺そうとした自分に迷わず「干し肉」を差し出した。あの時の肉の温かさと、自分を「人間」として扱ったアッシュの眼差し。
その一つ一つが、魔力を失い、魂が透け始めたシオンを、かろうじてこの世界に繋ぎ止めている唯一の楔だった。
シオンは懐から、アッシュが磨いてくれたあの古びたクナイを取り出した。
魔力は通らない。けれど、主の手の温もりが染み込んだその鉄だけは、今の彼女にとってどんな魔法よりも重く、確かな実体を持っていた。
(たとえ、この先で私の姿が完全に透き通り、貴方の記憶から私の名が消えたとしても……)
シオンはクナイを強く握りしめた。
たとえ自分が消える運命だとしても、アッシュが「不揃いな一歩」の先で青い空を見上げられるのなら、自分は喜んでその影に溶けよう。
「……今はまだ、貴方の後ろを歩ませてください。……不器用な護衛として」
三日後、氷の扉が開く。
シオンは、自分の存在が揺らぐ恐怖を深い瞳の奥に押し込み、再び主が眠る部屋の天井へと視線を落とした。
消えゆく残響は、月光の下で静かに、けれど苛烈な決意と共に、三つの理を束ねた主の無事を祈り続けていた。
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