第二十話、統制の都リノス・忘却の洞窟、 鏡打ちの記憶
どれほどの時間が流れただろうか。
重い瞼の裏側で、不規則な拍動が熱を帯びる。死の静寂を破り、アッシュの指先に最初に触れたのは、かつて経験したことのない異質な感触だった。湿り気を帯びた冷たい砂利、そして——指を這う、生き物の粘膜のような微かな震え。
顔を上げようとするが、首の骨がきしみ、視界が泥のように霞む。
そこは、地図にも歴史にも記されぬ場所。極寒の地層深くに口を開けた地下空洞、「忘却の洞窟」であった。
見上げれば、頭上の岩肌を埋め尽くしているのは、不気味な青白い苔。
日光が決して届くことのない、まるで巨大な獣の肺が呼吸を繰り返すかのように、緩慢なリズムで明滅を繰り返していた。
その青白い光が、洞窟に横たわるアッシュの影を、細長く、そして不気味に揺らしている。
「……ごほっ、げほっ……あぁ……」
肺に溜まった水を吐き出し、アッシュは力なく身を起こした。右手の紋章は機能を停止したかのように沈黙し、握りしめた古剣は、ただの冷たい鉄塊と化していた。
「……情けないな。━━結局、俺は何も変わっちゃいないんだ」
ふらふらと壁を伝い、闇の奥へ進む。熱に浮かされて視界が歪み、現実と記憶の境界が溶け始めた。
『アッシュ……、剣は『腕』で振るうな。己の中に感じる『芯』を、大地の中心……『点穴』へと叩き込め』
不意に、脳裏に亡き祖父のしわがれた声が響いた。
それは、幼い頃アッシュがカナンの道場で受けた、独自の剣術修行の記憶。
木剣を振るうアッシュに対し、じいちゃんは一歩も動かず、ただの「重み」だけでアッシュの打ち込みを跳ね返し続けた。
━━━『鏡打ち』。
相手の力を奪わず、大地を通じてそのまま相手に返すという、グローリア家に伝わる剣術。
『お前の剣が軽いのは、お前自身を信じていないからだ。土を掴め、アッシュ。お前の足が震えているうちは、剣はただの棒切れに過ぎん』
「…分かってるよ、じいちゃん……。でも、今の俺には、もう土も風も……なにも見えないんだ」
アッシュが弱音を漏らしたその時、洞窟の奥から、自分と全く同じ足音が響いてきた。
「っ?!!」
《……無様だな。その程度の絶望で、じいちゃんの教えを捨てるのか?》
闇の中から現れたのは、もう一人の自分だった。カナンの街でいつも着ていた警護団の煤けた制服を纏い、錆びた古剣を腰に下げた、旅に出る前の『アシュフォード・グローリア』。
「幻身」とよばれるソレは、冷たい瞳で満身創痍のアッシュを冷ややかに見つめている。
《ククルが命懸けで勇気を見せた時、お前はただ焦って、積み上げたはずの『型』を捨てた。
結局、お前は中身のない看板だ。仲間に支えられていなければ、立ち上がることさえできない弱虫だ》
「黙れ……」
《お前はじいちゃんの剣を継いだんじゃない。ただ、錆びつかせただけだ。……楽になれよ、アッシュ。
お前がここで消えれば、これ以上『グローリア』の名が汚れることもない》
幻身が、特製鞘から錆びた古剣を引き抜き、アッシュの喉元に突きつける。
だが、その冷たい切っ先が触れた瞬間、アッシュの身体が本能的に反応した。
━――『剣を振るうな。ただ、そこにある『楔』となれ』━━━
アッシュは無意識に重心を落とし、地を這うように身を捻った。
幻身の突きを、自らの肩で「鏡打ち」の要領で受け流す。魔力がなくても、この身体には数万回繰り返した修練の記憶が刻まれている。
「……じいちゃんは、言ったん
だ。……『剣は棒切れでも、お前の足が土を掴んでいる限り、道は途切れない』って。」
アッシュは幻身の剣を素手で掴み、泥臭く体当たりを見舞った。
幻身は一瞬、驚愕に顔を歪め、━━━そして満足そうに霧となって消えていった。
残されたのは、静寂と、自分の荒い呼吸。
アッシュは震える足で再び立ち上がる。
記憶の混濁はまだ続いている。だが、その足取りには絶望を乗り越えた、「かすかな希望」が宿っている。
「はあ、はあ……待ってろ、みんな。………次は、俺が迎えに行く」
洞窟の奥から吹き抜ける、氷雪を孕んだ冷たい風。アッシュは地下空洞の出口を探すため入口の方へとと進んでいく━━━。
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