第五話
夜の宮殿は、まるで息をひそめた獣の腹の中のようだった。厚い石壁の向こうで風が唸り、燭台の炎が細く震える。自分の足音が、静寂の中でひとつ、またひとつと響くたび、緊張がサノスの胸を締めつける。
しかし、隣のシャノアはあまりに静かすぎた。その静けさが逆に恐ろしく感じられて、シャノアの横顔を横目で見れば月の光を受けた青い瞳の奥の炎が眩いほどに燃え盛っているのが見えた。
――ようやく、この瞬間が来た。
幾度も夢に見た。
炎に包まれる王都、処刑された王、泣き叫ぶ民の声。
そして、そのすべてを遠くから見下ろして嗤ったあの裏切り者の男。その男の名を、シャノアはその名を、何度も心の奥で呪詛のように叫び続けてきた。
あの冷たい雨の夜から、幾年が過ぎたのか。まだ少女と呼ばれてもおかしくない歳頃、彼女は怒りのままに剣を取ってシルヴァの屋敷を襲撃した。だが、ミルウェイ帝国軍人でありシルヴァの護衛に着いていたロンドという名の青年に敗れ、復讐は叶わなかった。
しかし彼は剣を止め、彼女を殺さなかった。それが何故なのかは、いくら考えてもわからないままだった。
幼い顔の奥に宿る憎悪を見て、軍人の中の軍人である、あの男は何かを思ったのか。ただの気まぐれだったのか。その選択が、今、己の前に再び刃を向けさせることになる。
「……シャノア、この部屋だ」
低くサノスの囁き声が聞こえる。
彼女は短く頷く。
「あぁ――国を売り、私のすべてを奪った男」
視線は一点に、巨大な扉の先を見据えていた。
その向こうに、この身を焦がす業火の如き憎しみの元凶がいる。
「……サノス、扉の見張りを」
「了解」
サノスの声が背で消える。
それを確かめてから、シャノアはゆっくりと右手を金の取っ手に指をかけた。
冷たい金属の感触が、皮膚の奥まで染み込む。
鼓動が加速する。いや、これは心臓の鼓動ではない。血の音だ。あの夜から止まることのなかった、復讐の脈動。
頭の奥で、遠いリティニアの鐘の音が鳴った気がした。
――これで、全て終わる。ずっと追い続けた夜が、今ようやく形を持って目の前に現れた。
扉を押せば、重く鈍い軋みが夜の静寂を切り裂いた。
その瞬間、空気が変わる。
張り詰めた糸が、今にも切れそうに震えていた。
中は、金碧の間。
絢爛なシャンデリアが燭火を反射し、床に複雑な七色の光が散る。その中心に、情けない怯えた声をあげて此方を指さす男がいた――ミルウェイ帝国高官、シルヴァ。パサリと音を立てて膝元には書簡が散らばり、震える手で杖を掴んでいる。
「ひぃい!!何奴!」
怯えたシルヴァの無様な顔に、シャノアの増悪に火がついた。このたった1人の醜い男の裏切りによってリティニアの民が、王である父が、母が死んでいったと思うと、激しい怒りと共に憎しみが噴き出して、頭の中が真っ赤に染まる。
「この顔に覚えはないか、シルヴァ……!貴様を殺すために私は……!今の今まで生きてきた!!
このシャノア・アム・リティニアが貴様を殺す!!」
「この死に損ない小娘が!!な、何をしている!早く私を助けんか!」
しかしその前に白の詰襟軍服が立ち塞がる。
真っすぐな背筋で、確かな気迫をもって此方を鋭い目で見る男。
ミルウェイ帝国軍人、ロンド大尉。
視線が交錯する。
それだけで、遠いあの深夜の路地、自分から溢れた血で濡れた石畳の光景が一気に蘇る。あの時を屈辱を、衝撃を、シャノアが忘れた日はない。風に吹かれる茶色い髪と、暗がりの中でも印象に残った緑の瞳、そして優しげな顔立ちに見合わない、体が痺れるほどの重い斬撃。あの時のシャノアは深い斬撃を受けてひどい出血で失血死しかけた。未だ腹には当時の傷が残っている。
剣を構えたシャノアに、ロンドの目が細められた。
彼女の怒りで歪んだ美しい顔を、月光が照らす。
青の瞳、金の髪――忘れようとしても忘れられなかったあの復讐にとり憑かれた少女の姿が重なる。
「……まさか、あの晩の……いや、あの炎のように燃える瞳を見間違えるはずはない」
呟きに似た言葉は、小さく夜の静けさに消えた。
剣が金属音を響かせながらゆっくりと鞘から抜かれた。
そして、低く、鋭い声が響いた。
「――また現れようとはな。復讐鬼に堕ちた亡国リティニアの姫」
シャノアはわずかに顎を上げ、外套を払う。
鋭く相手に向けられた剣が、鈍くシャンデリアの光を反射した。
「……久方ぶりね、ロンド大尉」
広間の空気が、音を立てずに凍りつく。
蝋燭の炎が、彼らの間を隔てるように揺れた。
「拾った命、大事にしておけば良いものを」
「出来ない相談だわ」
――あの晩の因縁が、ついに再び刃を交わす夜が来た。




