第四話
山を越えた先には、霧の谷が広がっていた。夜明けの光がゆっくりと差し込み、遠くの街並みを白金に染めていく。
――バルディア。ミルウェイ帝国の西に位置する、小国であり、長年中立を貫いてきた国家である。
高い石壁の向こうで、朝の鐘の音が薄く響いた。
「……ここが、バルディアか」
峠を越えてから幾晩もろくに眠らず、サノスの顔には疲労が滲んでいたが、それでも目を輝かせていた。目にしたことのない景色は、小さな世界で暮らしていた彼にとって全てが宝物のように煌めいて見えるのだ。
「ここから先は見張りが多い。口を開くな」
シャノアは真紅の外套のフードを深くかぶり、短く言った。
城門前の検問所には、武装兵が列をなしていた。旅商人や巡礼者が行列を作り、荷車を調べられている。馬のいななき、荷台を打つ音、鉄靴の足音、香辛料の匂い──それらが混じり合い、賑やかな街の空気を満たしていた。
シャノアは懐から古びた通行証を取り出すと、衛兵に手渡す。
「傭兵だ。任務で来た」
無表情に言い放つその声に、兵は疑いもせず頷いた。
わずかな金貨の音が鳴り、古い門がゆっくりと開く。
通り抜けた瞬間、サノスは息を吐いた。
「っは!緊張した」
「慣れろ」
淡々と返すシャノアの背を追いながら、サノスは街の光景に目を奪われた。
バルディアの街は、活気に満ちていた。
石畳の道を馬車が行き交い、露店では焼き菓子や果実酒の香りが風に乗る。どこかで笛の音が鳴り、子どもたちの笑い声が響く。石畳の継ぎ目に朝露が光り、馬の蹄がその雫を跳ね散らした。貧民街とは全く異なる様相の明るい異国の街に、サノスは目を細めた。
だが、隣を歩くシャノアの表情は冷ややかだった。
「利己主義で成り立つ平和だ。発展途上だったこの国の発展を助けたリティニアが沈む時、この国は知らんふりを決め込んだ。この街の繁栄は、リティニアが支えたというのに」
低く落とした声が、祭りのざわめきにかき消される。
シャノアとこの美しい光景を見る喜びを分かち合えなかったことを少し残念に思いながら、ただその横顔を見つめた。
彼女にはもう見えていないのだ、このささやかな光り輝く宝が。彼女の目に映るのはこの世界の大局と、復讐すべき男の影だけ。
裏通りに入ると、賑やかな音が遠のき、代わりに湿った空気が肌に触れる。路地裏の奥、崩れかけた石造りの礼拝堂――その扉の前で、シャノアが立ち止まった。
「ここだ」
扉を押すと、軋んだ音とともに冷たい空気が流れ込む内部はほこりに覆われ、割れたステンドグラスから淡い光が差していた。
古い机、朽ちた旗、壁に刻まれた古語の祈りの言葉。
足元の瓦礫を踏む音が、静寂の中に響く。
「これ、リティニアの国旗だよな……拠点だったのか?」
「この国を支援するため派遣された者たちが利用していた屯所だ。……今はもう、誰も来ないわ」
シャノアは机の上を払うと、地図を広げた。
ランプの灯りがゆらゆらと紙面を照らす。
街の中心には、青い城壁に囲まれた宮殿――ミルウェイの高官たちの滞在所。
「標的は、ここだ。街で得た情報を整理すると、この大宮殿に滞在しているとみて間違いない。今は交易に関する交渉に来ているのだとか……呑気なことだ」
指先が地図の一点を指し示す。
あの焚き火の夜に聞いた名が、ついに現実として現れた。息を殺して、囁く。
「……明日には動かねえと」
「いや。私ひとりで行く」
「は?」
思わず声が出た。
シャノアの瞳が静かに彼を見据える。
「お前はここに残れ。もし私が戻らなければ、夜明けにこの隠れ家を出て、北の森を抜けろ。その先に古い橋がある。そこで待てば……」
「待ってくれよ、それじゃ――」
「これは復讐の戦だ。子供を巻き込む気はない」
その言葉に、サノスの拳が震えた。
「俺だって戦える! ずっと一緒に来たのに、置いていくなんて……!」
シャノアは静かに顔を背け、ランプの灯りを落とす。
「お前に死なれたら困る。ここにいなさい、それが一番の手伝いだ」
暗闇が落ち、沈黙が広がる。
サノスは唇を噛み、しばらく黙っていたが、やがてかすれた声で言った。
「……嫌だ、俺は……俺は、あんたに着いて行くって決めたんだ。死ぬのは怖くない、あんたの隣で死ねるなら」
必死なその声に、シャノアの表情が変わった。
ステンドグラスから差し込む月明かりに照らされる横顔は、ほんの一瞬だけ困ったように笑った。
「……好きにしなさい」
風のない夜、静寂の中で、二人の心音だけが、確かに響いていた。地図の上に置かれた、人に見立てた大小さまざまな石が、小さな世界の縮図に静かに影を落とす。




