第三話
第三話
霧の立ちこめる山麓の村は、まるで息を潜めるように静まり返っていた。
峠へと続く細道の入口に立ち、シャノアは馬のたてがみを撫でる。
「補給を済ませたら、すぐ発つ」
サノスは初めての旅に疲れ果てていたので力なくうなずき、馬から降りた。まだ移動するのか、と心の中で文句を垂らしながら重たい足を引きずっていると、村の奥に見える看板に目に入ってきた。木製のそれには、かすれた金文字で《止まり木亭》と書かれている。
「お!酒場だ!」
「……行くなら静かに」
先ほどの疲労はどこへやら、スキップでもしそうな足取りで駆けていくサノスに、わずかにため息をつきながらも、シャノアは彼の後に続いた。ずっと1人で旅をしていた時には、こういったリズムを崩されるようなことはなかった。それは面倒ながらも、新しい風が舞い込んだかのような新鮮さをもたらした。
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扉を開くと、チリンとドアの鈴が鳴り、木の香りと煙草の匂いが鼻をくすぐる。カウンターで皿を拭いていた店主がこちらを振り返り、低い声でいらっしゃい、と呟いた。客は数人。皆、声を潜めて話している。
サノスは興味津々にカウンターへ向かい、早速酒を注文した。チリン、と鈴が鳴ったので振り返ると、シャノアが遅れて入ってきたようだった。
「へい、お待ち」
ドン!威勢よくカウンターテーブルに置かれたジョッキに目を輝かせ、手を伸ばす。だがその手は、すぐにシャノアに押さえられた。
「何するんだよ!」
「やめておけ。酔えば隙をつくる」
「ちょっとくらい……」
「……第一、お前はまだ子供だろう」
その口調は冷たく聞こえたが、そこには心配の色が浮かんでいるようで、ニシシ、と笑みが溢れた。
「店主、果実のジュースを頼む」
「い、いいのかよ!果実なんて贅沢品じゃねぇか」
「変な所で遠慮するな……それで、店主。バルディアまで行く。山の向こうの目新しいニュースはあるか?」
シャノアの低い声に、店主は一瞬眉をひそめ、声を落とした。
「最近、首都が騒がしいんだ。あのミルウェイの高官が来てるらしい。和平交渉だとかなんとか」
「……高官?」
シャノアの目付きが鋭くなり、無言で話の続きを促す。
「ああ、名は……シルヴァと言ったな。腹の底が読めない奴だって評判の、ミルウェイの軍事方面に管を張ってる男だ……」
その名が出た瞬間、シャノアの表情が凍り、手にしていたカップの中の水面がわずかに震えた。
「どうした?」
サノスが小声で尋ねる。
「……シルヴァ。リティニアを滅ぼした裏切り者……そして、私必ずや殺すと、決めている男だ」
「そいつが今……山向こうのバルディアにいるってのか!?」
「あぁ」
その声は静かだったが、深く沈んだ、ドロドロと渦巻く憎悪が滲んでいた。鋭い目線は一点を見つめて、瞳の奥は復讐の炎が轟々と燃え上がっていた。
生まれて初めて目にした明確な憎悪に、背筋がぞくぞくした。
彼女が今まで決して語らなかった、今の彼女を形作った核とも呼べる強い感情が、ついに姿を見せた気がした。
薄暗い酒場を出て、日が明るい内に二人は村を発った。
山道は山頂に向かうほど岩がちで、冷たい風が肌を刺した。やがて木々が開け、遠くの谷に村の灯が小さく瞬いている。
先を歩くのはシャノア。暗がりの中赤い外套の裾が風に翻り、まるで旗印のようだった。サノスはその背を追いながら、彼女の足取りに惹かれるように歩いた。
「痛っ……」
思いがけず、足場を踏み損なった事で足に痛みが走った。
「今日は、ここで野営」
「……悪い」
シャノアの足取りや息遣いに乱れは見えず、自分が旅の足を引っ張っていることに薄々勘づいていたサノスは申し訳ない気持ちに駆られた。しかし、そんなことを気にも止めずシャノアは道中収穫した山の小さな果実を取り出すと、手慣れた手つきで潰し、それをサノスの足に貼り付けた。
「そう思うのなら、早く治すことだ。この果実は捻挫に効く、明日に備えて休め」
「そんなことまで知ってるんだな」
「生き延びるために覚えただけよ」
ふい、と顔を背けて野営の支度を始めた彼女の横顔には、苛立ちや怒りは浮かんでいなかった。むしろ、少し楽しげに少し上がった口角を見逃さなかったのは、彼女と共に旅をしてきた成果だろうか。
やがて、陽が完全に沈み、夜の帳が降りる。2人は小枝を集めて火を起こし、焚き火を焚いていた。
パチパチと火が弾ける音。
木々の向こう、星々が無数に瞬いている。
世界が静まり返る中で、シャノアが口を開いた。
「……裏切り者を殺す。それがこの旅の目的だ」
「シルヴァを、か」
「そう。奴は国を売った。王も、兵も、民も、奴の私利私欲のために惨たらしく死んだ。私は、どんな手を使っても、この身を悪魔に捧げても、シルヴァを殺す……」
火の明かりが彼女の瞳をゆらゆらと照らす。強い覚悟が、怒りが、復讐の炎が、彼女の内から溢れ出てくるようだった。
「……そして、ミルウェイ帝国を滅ぼす。私の国の民が味わった痛みを、必ずや」
その声には、悲しみと怒りが入り混じっていた。
サノスは口を開いたが、何の言葉も出てくることはなかった。きっと彼女の痛みは、怒りは、言葉に表せるほど安いものじゃないんだと、ただ焚き火を見つめながら思った。そして、静かに問うた。
「復讐を果たしたら、あんたはどこへ行くんだ?」
シャノアは一瞬、言葉を失った。サノスにはそのように見えた。炎の影が頬をなぞり、揺らめく。
「さぁ、な」
サノスは拳を握る。必ずや、この美しく優しい人を玉座に座らせるのだ、と決意した。この人は、もっと光り輝くべきなのだ。あぁ、きっと金の髪に、王冠が映えるだろう。戴冠した彼女はきっと世界で1番、美しい。
焚き火の枝が、パチリと音を立てながら崩れ落ちた。
――いつか、この人に似合う真紅の旗を掲げよう。
東の空がわずかに白み始めた。
星がひとつ、またひとつ、薄れていく。




