第1章:冒険への呼び声
ダンロレンの夕暮れ――
P.A.(Post-Aurelio、アウレリオ後)791年のプルヴィオニス(五月)八日。
ロリアン・フェアチャイルドが深紅の盾の銅ランクの冒険者になってから、ほぼ一ヶ月が経った。彼は今日の仕事を終え、図書館の事務書類を整理していた。
その瞳には、もはや光がなかった。まるで命そのものが抜け落ちたように。
ロリアンはゆっくりと足を引きずるようにして帰路につく。家に着くと、扉を開ける前に両親の会話が聞こえてきた。
「――一ヶ月よ!?一ヶ月も経ったのに、ろくな依頼の一つも来やしない!努力したところで何の意味があるの?
鍛錬して、勉強して、働いて、金を貯めて……全部無駄だったじゃない!最初から分かってたはずよ、常識があれば!」
「アルヴェドロス、あの子はまだ子供よ。子供には夢があるの。ただの時期よ。もうすぐ落ち着くわ。
図書館の仕事もちゃんとしてるし、そのうち書記官として雇ってもらえるかもしれないし、役所に勤めることだって――」
「ハッ!書記官だと? 目の前の物すら見えやしない奴に、そんな仕事が務まるかよ。将来、まともに食っていけたら、それだけで儲けもんだ。あんな出来損ないはな」
――ギュッ。
ロリアンは拳を握りしめた。怒りと悲しみが入り混じる中、彼は家に入らず、裏庭へと回って座り込んだ。膝を抱え、うつむいたまま、夜になるのをただ待つ。
* * *
夜になった。
夕食を済ませたロリアンは、自室のベッドに横になり、虚空を見つめていた。ここ数週間、眠りにつくまでに何時間もかかっていた。
その頃、リビングでは両親が寝室に行く前に言い争っていた。
「ヴィレリア、お酒買ってきてないのか?今夜はもっと飲みたいって言ったよな?どうして毎回言うことを聞かないんだ、この怠け者が!」
ヴィレリアはため息をつくだけだった。すると、玄関をノックする音が響いた。
「誰だ?もう寝るところだぞ!こんな夜更けに人ん家を訪ねて、迷惑だと思わねぇのか?まさか税金の取り立てか?」
「――失礼します。ロリアン・フェアチャイルドという者を探している」
その声は、ロリアンの耳にも届いた。部屋でじっとしていた彼は、首をかしげた。
『僕を……?誰だろう?ロッドかルミかな?でも声が違ったような……』
ロリアンは立ち上がり、そっと扉の陰から様子を窺った。
苛立ちを隠さないまま、アルヴェドロスが玄関を開ける。
「息子に何の用だ?こんな時間に――」
そこには、まるで別の世界から現れたような三人の人物が立っていた。
先頭にいたのは、全身を黒いローブとマントで包んだ男だった。仮面で顔を隠し、見えるのは鋭い目だけ。腰にはいくつかのポーチを提げており、細身ながら引き締まった体つきをしている。
その後ろには、トルガよりもさらに大柄な褐色の肌を持つ、筋骨隆々の戦女がいた。左腕には部族風の刺青があり、茶色の波打つ髪を後ろでまとめている。背中には、自分の身長ほどもある大剣を背負っていた。
最後尾にいたのは、緑のフード付きマントを羽織った男。手には木の枝でできた杖を持ち、顔の大半はぼさぼさの茶色い髭に隠れていた。まるで浮浪者のような風貌だった。
その光景に、アルヴェドロスは言葉を失った。
「……お前たちは一体何者だ?息子に何の用だ……?」
「時間がない。緊急の依頼で、息子さんが必要だ」
その言葉を聞いた瞬間、ロリアンの胸が激しく高鳴った。一瞬、本当に心臓が止まるかと思うほどに。
ロリアンは思わず部屋を飛び出し、その場に現れる。顔には緊張と困惑、そして期待が混ざっていた。
「お前がロリアンか?」
「は、はいっ、はいっ!し、失礼しました!」
仮面の男が一歩踏み込み、ロリアンの目の前に立つ。
「アウレリオ語は読めるか。どの程度の精度で理解している?」
「ア、アウレリオ語……?え、えっと……僕は……その……流暢です。アウレリオ語の文法書、全部……読みましたし……!」
「……完璧だな。俺は『夜の影』。緊急任務中だ。アウレリオ語の知識がある者を探して、任務を続行する必要があった」
その名を聞いた瞬間、ロリアンの思考が停止する。
『ナ、ナ、ナ、ナ、ナ……夜の影ぉぉぉぉぉぉっっ!?
ク、深紅の盾の中でも最強クラスのローグで、エルドールの外でも恐れられてる伝説級の人物が……ぼ、僕の目の前にぃぃぃっ!?』
その間に、三人組はぞろぞろと家の中へと入ってくる。ロリアンはようやく他のメンバーの姿をはっきりと確認できた。
「――ここに酒ある?喉乾いたわ。……アルコールのな」
そう言ったのは、褐色の肌に刺青を入れた戦女。ロリアンはその顔を見るなり、絶叫する。
『えええええええええええええええっ!?こ、こ、こ、この人は……リサンドラ・デメトリオス!!銀ランクの狂戦士で、ここ二年でオークやトロル相手に何度も勝利を重ねた部族の指揮官だ……!』
次に目を向けたのは、緑のフードを被った男だった。彼の持つ杖の先端が、螺旋状に内向きに巻かれているのを見た瞬間、ロリアンの目が見開く。
『う、うそだろぉぉぉっ!?この形状……これは……これはまさか伝説の『エルダーグローヴの樫の杖』!?大地そのものの精霊に選ばれしドルイドだけが授かるっていう、あの……!?』
三人が室内に入ると、ロリアンとその両親はさらにもう一人の存在に気づいた。
体格や背丈からして、十代の少年のように見えた。白を基調に、赤と青の装飾が施された服を着ており、フードで顔を隠している。
突然の乱入に、アルヴェドロスが声を荒らげる。
「何のつもりだ!?真夜中近くに勝手に人の家に入ってきて、うちの息子――まだ子供なんだぞ!――に何の用だ!」
リサンドラはゆっくりと顔を下に向け、アルヴェドロスを見下ろした。
「……子供?おたくの息子は『冒険者』なんでしょ?」
その視線だけで、アルヴェドロスは言葉を失い、身をすくめた。
(夜の影)「……ギルドで聞いたんだ。アウレリオ語を読める人間がダンロレンかその周辺にいないかと。運良く、この町に一人いた。しかも冒険者とはな」
そう言って、夜の影はテーブルに腰を下ろし、脚を組んだ。
「ロリアン、時間がない。危険なカルト教団が強力な魔法の遺物を探している。俺たちは奴らより先に、それを手に入れなければならない。俺は奴らの古文書を何本か盗み出して、写本にしておいた」
夜の影は懐から何枚かの巻物を取り出した。見た目は新品の巻物だが、そこに書かれた文字は手書きで、まるで古代文書そのもののような雰囲気を放っていた。
いわば現代風に言えば、「古文書のコピーを新品の巻物に書き写したもの」といったところか。
「『記憶写本』で奴らの古文書を写したものだ。
アウレリオ語で書かれているから読めなかったが、調査した限りでは、あれは強力な遺物の座標が記されているものだ。
だからこそ、俺たちは急いで翻訳できる者を探していた。エルドール中を探してる暇も、正式な依頼を出す余裕もなかった」
ロリアンは巻物を受け取り、そっと顔を近づける。
「は、はい……これは地図作成に関する文書です。読み方は分かるけど……でも、こ、これをどうやって実際の地図にすれば……?僕、地図学なんて知らないし、内容は全部、地図記録の手順ばかりで……」
「――心配いらないよ!地図のことなら、ぼくに任せて!」
不意に声が飛んできて、ロリアンがビクリと肩を跳ねさせる。
彼とその両親、そして四人の訪問者もまた、もう一人の存在にようやく気がついた。明らかに小人の種族であった。
小柄な体に、裸足。赤を基調に黄色の装飾が入った衣装をまとい、肩にポーチをかけている。
栗色の巻き毛を持つその人物は、見た目からして二十代前半――そして明らかにエルドール出身ではなさそうな口調と服装だった。
「いやあ、びっくりさせちゃってごめんごめん。いや、何より……こんな無作法してすみませんね。ぼく、『カルタン・セレリアヌス・ティロフィルス』って言います。まあ、多分知らないと思うけど……」
「カ、カルタン・セレリアヌス・ティロフィルスさん!?」
ロリアンが反射的に叫んだ。
「カルタン・セレリアヌス・ティロフィルス!?図書館にある地図の、およそ八割を手がけたっていう、あの伝説の地図職人!?」
「うん、そうだよ。謙遜は抜きにして言えば、それは君の図書館だけじゃないと思うけどね。ぼくはヘスペリア全土の地図の現代化を担当している、いわば近代地図の専門家さ」
「はい!聞いたことあります!ヘレニア出身で、自分の足で旅をして、より正確な地図を描くことで知られている方ですよね!」
「わー、ファンかあ。なんか照れるなぁ~。あ、冗談だよ♪それと、仲間たちが名乗らなかったから代わりに紹介しとくね。
こっちの大女が『リサンドラ・デメトリオス』さん。で、あそこで黙ってるあそこのドルイドがが『エロウェン・アシュソーン』さんだよ」
「……さて」
夜の影が場の空気を切るように口を開いた。
「もう言った通り、時間がない。おお前は来るのか?来ないのか?今すぐ決めろ。断るなら、南へ向かって別の候補を探すしかない」
「待てよ!!」
アルヴェドロスが声を荒らげる。
「ふざけるなよ!?見ず知らずの連中が真夜中に押しかけてきて、ウチの息子を巻き込んで、自殺行為みたいな任務に連れていくだと!?なんて無茶苦茶な話だ!」
一同は口を閉ざす。だがアルヴェドロスは止まらない。
「よく見てみろ!あいつはまだ子供だぞ!?髭もまだ生えてない、細っこくて力も経験もない。
冒険者とはいえ、ギルドに登録してからまだ一ヶ月も経ってないんだ!そんな奴を高難度の任務に連れていくなんて、死ねって言ってるようなもんだろ!?絶対に許可しない!」
ロリアンはうつむき、拳を固く握りしめる。心の中では燃えるような怒りが渦巻いていた。
『……ふざけるな。今さら【心配する父親】気取りか?一生バカにして、侮辱して、笑い者にして……この12日間だって、ろくな依頼一つ来ないって毎日ネチネチ言ってきたくせに……』
「……お尋ねしてもよろしいですか、旦那様?この任務に行くかどうかは、あなたの判断ですか?それとも……彼自身の判断ですか?」
静かな声が室内に響く。先ほどからフードを被っていた少年――明らかに十代の声で話し始めた。
「なんだと、坊主?お前みたいなガキが口出しするな!お前もまだ若造だろ?そんなお前がこんな任務に出てるのもおかしいってのに!親である俺が決めるに決まってるだろうが!」
「……ですが、人の道は本人が選び、歩むべきものです。他人に決められるものではありません。
彼は試験を受け、冒険者として認められた。自分でその道を選んだ以上、危険を理解したうえで進んでいるはずです。知性も十分に感じられます」
「てめえ、何様のつもりだ!?よそのガキが俺の家に来て、俺に説教しようってのか!?それを、他所の小僧が――!」
その瞬間――少年がフードを外す。
現れたのは、金色に輝く逆立った長髪。金の瞳に、日差しのような光沢を持つ小麦色の肌。その顔を見た瞬間――
アルヴェドロスは絶句し、ヴィレリアはその場に膝をついた。ロリアンは言葉を詰まらせ、ただ息を呑む。
――いや、この場の全員、いやエルドールの誰もが知っている顔だった。
「こ、こ、こ、こ……こいつ……カ、カエウ様!?太陽神の御子、カエウ様……!?」




