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第9話 今日は、ここで寝る

目を開けると、見慣れない天井があった。和室の天井だと気づくまで、何秒かかかった。


 台所から、トースターの焼き上がる音がした。


 食卓には、いつものように二枚の皿が並んでいた。片方のトーストだけ、焼き色が薄い。


「おはよう」


 直人の声も、いつもどおりだった。目の下が、うっすらと黒かった。


 美穂は椅子に座り、トーストを手に取った。口もとまで持っていって、そこで止まった。


 十年、毎朝食べてきた焼き色だった。美穂の好みを、直人は一度も間違えたことがない。


 皿に戻した。


「ごめん。今日は、食べられない」


「……うん」


 直人も、自分のトーストに手をつけなかった。


 洗面所で顔を洗おうとして、美穂は洗面台に両手をついた。蛇口から、水が流れ続けている。止めなければと思うのに、手が動かなかった。


 ゆうべは泣かなかった。今になって、膝に力が入らなかった。


 ずいぶん経ってから、ようやく水を止めた。


    *


 携帯に、佐伯先生からの返信が届いていた。


〈ご連絡ありがとうございます。今日の午後、実家に着きます。確認の時期についても、記録があればわかると思います。見つかり次第、お知らせします〉


 食卓に戻ると、直人が弁当箱を二つ、包んでいるところだった。


「一つ、教えてほしいことがあるの」


「うん」


「うちのお金のこと。今、どうなってるか」


 直人は、包みの結び目から手を離した。


「何か、必要なものがあるの? 言ってくれれば——」


「いくら欲しいかじゃなくて」


 自分の声が思ったより落ち着いていることに、美穂は気づいた。


「今、どうなってるかを知りたいの」


 直人は、美穂の顔を見ていた。それから立ち上がり、本棚の下の段から青いファイルを出した。


「全部、ここに入ってる。口座も、保険も、毎月の引き落としも」


 厚みのあるファイルだった。それがそこにあることを、美穂は知らなかった。


「今夜、見る」


「わからないところがあったら、聞いて」


 直人はそう言って、ファイルを食卓の端に置いた。


    *


 昼休み、バックヤードで携帯を開いた。


 店から歩いて通える範囲で、いちばん小さな部屋を探した。家賃、敷金、礼金、引っ越しの費用。


 自分の給料を思い浮かべる。週に五日、一日五時間。画面の家賃と光熱費を払えば、手もとにはほとんど残らない。


 一人で暮らすなら、もっと働くしかなかった。働く時間を増やせば、描く時間が減る。


 締め切りは、明日の夜だった。公園の絵は、ゆうべ座卓の上に伏せたままになっている。


 休憩の終わりに、店長に声をかけた。


「勤務の時間を、増やしてもらうことってできますか」


 店長は、伝票をめくる手を止めた。


「美穂さんが? 珍しいね」


「すぐじゃなくても、いいんです」


「春は人が足りてるのよね。夏の終わりに一人辞めるから、そのときなら考えられるかもしれない」


 店長は売り場のほうに目をやってから、付け加えた。


「母の日の案内、お客さんがよく足を止めてるのよ。ああいうの、もっと頼みたいくらい」


 美穂は礼を言って、売り場に戻った。


 何も決まらなかった。それでも、自分の口で聞いた。


    *


 駅ビルの最上階の和食屋は、十年前と同じ場所にあった。


 母は先に来ていた。会うのは正月以来だった。こんなに肩の細い人だっただろうか、と美穂は思った。


「あなたは、ちらし寿司でいいわよね。昔から好きでしょう」


 いつものように頷きかけてから、美穂は品書きを開いた。


「……今日は、天ぷらにする」


 母は瞬きをして、それから店員を呼んだ。


 十年前の顔合わせでは、奥の広い座敷を使った。直人の両親と母が向かい合い、美穂と直人は端に並んで座った。


 あのとき、母は直人の父親に頭を下げて、こう言った。


 この子は昔から、自分では何も決められなくて。直人さんのような方がいてくださると、安心です。


 皆が笑った。美穂も笑った。本当にそうだと思っていたからだ。


「直人さんも、反省してるんでしょう」


 湯呑みを置いて、母が言った。


「お母さん、直人と話したの」


「話してないけど。あの人なら、きっとそうでしょう」


「話してないなら、わからないよ」


 母は口を閉じた。


「……まさか、家を出るつもりじゃないでしょうね」


 美穂は答えなかった。


「それで、生活はどうするの。あなた一人で、やっていけるの」


「生活のことは、考えてる」


 昼に見た部屋の家賃が、頭に浮かんだ。


「だから、今すぐ答えが出ないの」


「うちに来たっていいのよ。部屋は空いてるんだから」


「それも、今は決めない」


 天ぷらが運ばれてきた。揚げたての衣が、皿の上でかすかに音を立てた。


「一つだけ、聞きたかったの」


 美穂は箸を置いた。


「工房から電話が来たとき。最初に、何て思った?」


 母は、湯呑みの中を見ていた。


「……断るなんて、もったいないって」


 小さな声だった。


「あなたの絵が、遠くの人に認められたのに。断るなんてもったいないって、思ったの。最初は」


 最初は、と美穂は胸の中で繰り返した。その先を、母は言わなかった。


 しばらく、二人とも黙って箸を動かした。


「絵は、また描いてるの」


 母のほうから聞いてきた。


「出版社に、送ろうと思ってる。締め切りが、明日の夜」


「間に合うの」


「わからない」


 母は何か言おうとして、やめた。それから、天ぷらの皿の端に残っていた海老を、美穂のほうへ押しやった。


 帰り際、エレベーターの前で母が言った。


「天ぷら、おいしかった?」


「うん」


 それは本当だった。


    *


 家に帰ると、居間の明かりがついていた。


 直人はソファに座っていた。テレビは消えている。食卓の上に青いファイルが置いてあり、何枚も付箋が貼られていた。


「おかえり」


 直人はソファから腰を浮かせかけて、座り直した。


「……お母さん、どうだった」


「天ぷらを食べた」


 直人は、それ以上聞かなかった。


 美穂は上着を掛け、鞄を置いた。その動きの一つ一つを、直人の目が追っているのがわかった。


「帰ってきてくれたんだね」


 かすれた声だった。


「まだ、一緒にいてくれるってこと?」


 美穂は青いファイルを手に取った。思っていたより重かった。


「今日は、ここで寝るということ」


(第9話 了)

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