第8話 本人が決めたことです
「いつ」
自分のものとは思えない声だった。
「あなたが、落ちたって電話してくる、何日か前」
母は、ゆっくり話した。一語ずつ、置く場所を確かめるように。
「工房の人がね。直人さんから辞退のご連絡がありましたけれど、ご本人のお気持ちで間違いないでしょうかって。あなたの携帯に何度かかけたけど、つながらなかったって」
知らない番号からの着信が、あの春、あったかもしれない。気にも留めなかった。
美穂は、座卓の端をつかんだ。
「それで、お母さんは」
電話の向こうで、母が息を整える音がした。
「……本人が決めたことです、って」
落ちちゃった、と電話したあの日。母は、もう知っていた。知っていて、そう、と言い、残念だったね、と言った。でも、あなたには直人さんがいるじゃない、と。
「どうして、私に聞かなかったの」
「あなたも、その方がよかったんだと思ってた」
母の声は平らだった。ずっと前から、胸の中で何度も言ってきた言葉のようだった。
「あんなに不安がってたでしょう。お金のことも、遠いことも。夜中に電話してきて、行けるかわからないって泣いたこともあった。直人さんがそばで支えてくれるなら、そのほうがいいって」
「私に、聞いた?」
母は答えなかった。
「工房の人に、本人が決めたって言ったんだよね」
座卓をつかんだ指に、力が入った。
「私が決めたって、どうして言えたの」
やがて、母は言った。
「……直人さんがそう言ってるって聞いたから。あの人が言うなら、あなたと二人で話し合って決めたんだろうって」
「思っただけ?」
母は、また黙った。
「私が落ちたって電話したとき、どうして本当のことを言わなかったの」
「言えなかったの」
今度の返事は早かった。
「あなたが落ちたって言うなら、そういうことにしておくのが、いちばんいいと思った。そのほうが、あなたが楽だろうって」
楽だろう、と美穂は思った。
楽だった。婚姻届に名前を書いたとき、本当に楽だった。そのことを、母に言い当てられたような気がした。
「食事会で、あなたが笑ってるのを見て」
母の声が、そこで揺れた。
「ああ、これでよかったんだって、思ったの」
窓際の長いテーブル。「本日は」を二回言った直人。テーブルを回って、鯛を食べ損ねた自分。
あの日の自分の笑顔は、母の中では、ずっと答えの代わりだったのだ。
「……ごめんなさい」
母が言った。
謝られて、何と答えればいいのか、美穂にはわからなかった。
「直人には、このこと、話した?」
「話してない。誰にも」
テレビの音もしない。電話の向こうは、やけに静かだった。
「明日、行くから」
美穂は言った。
「……来てくれるの」
「聞きたいことが、まだあるから」
それだけ言って、電話を切った。
十年前のあの電話は、前に住んでいた部屋のベランダでかけた。洗濯物の向こうに、夕方の空があった。落ちちゃった、と言った美穂に、母は最後にこう言った。ちゃんとご飯、食べなさいよ。
その声も、もう知っている人の声だったのだ。
*
台所に戻ると、直人は流しの前に立っていた。洗っていない椀が二つ、重ねて置いてあった。
「お母さん、何て?」
直人は、美穂の顔を見て言い直した。
「……美穂、大丈夫?」
美穂は、その問いには答えなかった。
「お母さん、知ってた」
直人の動きが止まった。
「工房から、確認の電話があったって。お母さんが、本人が決めたことですって、答えたって」
「……お母さんが?」
直人の顔から、表情が抜けた。
「知らない。そんな電話があったなんて、知らなかった」
「お母さんと、このこと、話したことは」
「ない。一度も」
直人は、濡れてもいない手を、タオルで拭いた。
「俺は、工房に電話して……それで、終わったと思ってた」
直人は、タオルを握ったまま言った。
「俺のせいで、お母さんにまで、嘘をつかせたんだな」
「嘘をついたのは、お母さんだよ」
直人が、こちらを見た。
「お母さんが答えたことは、お母さんのことだから」
自分でも、なぜそう言ったのかはわからなかった。ただ、直人がそれを自分の話にしてしまうのは、違う気がした。
美穂は、直人の顔を見ていた。驚いているように見えた。けれど、一時間前までの自分なら、この人の顔をそのまま信じていたはずだった。今は、どこまで信じていいのかがわからなかった。
直人は電話をかけた。母は電話に答えた。
どちらも、美穂のいないところで。
「今日は、和室で寝る」
「俺がソファで寝るよ。美穂はベッドで——」
「和室がいい」
直人は口を閉じた。それから、小さく頷いた。
*
押し入れから、客用の布団を下ろした。
押し入れの奥には、あの箱がある。表紙の擦れたノートが、まだ底に入っている。美穂は箱には触れずに、襖を閉めた。
布団を敷くと、座卓を壁際に寄せるしかなかった。公園の絵は、座卓の上に伏せて置いた。
布団に入っても、眠れそうになかった。
襖の向こうで、直人はなかなか寝室へ行かなかった。椅子を引く音がして、しばらく何も聞こえなくなった。ずいぶん経ってから、ようやく流しの水が出る音がした。椀を洗う音が、二つ分だけ続いた。
携帯を開いて、佐伯先生とのメールの画面を出した。
工房は、直人の電話だけでは辞退を確かめきれずに、母のところへ電話をした。採用の通知には、きっと返事の期限があったはずだ。もし、そのとき、まだその期限が残っていたのなら。母がひとこと、本人に聞いてみます、と言っていたら。
そこから先を考えるのは、まだ怖かった。それでも、知らないままでいるほうが、もっと怖かった。
何度か書き直して、美穂は送信した。
〈夜分にすみません。お尋ねしたいことがあります。工房が当時、私の実家に確認の電話をしていたことがわかりました。その確認って、返事の締め切りより前だったんでしょうか〉
(第8話 了)




