第7話 君が、ほっとしていたから
「辞退の連絡は、私じゃない人からだったって」
声は、思っていたより平らに出た。
「誰だったかは、先生も覚えてない。だから今、昔の書類を探してくれてる。週の後半に、実家の物置を見るって」
美穂は、昼のバックヤードで聞いた声を思い出した。
「先生、残念だったって。しばらく人に話す気になれなかったくらいだって」
直人は目を閉じた。長く、息を吐いた。
「……書類、残ってるんだ」
問いではなかった。
やがて、直人は目を開けた。
「最初の夜、先生の記憶違いじゃないかって、言ったでしょう」
「……うん」
「先生の記憶違いだって、美穂が思ってくれたら……それで終わると思った」
直人は、食卓の上の空の椀を、脇へ押しやった。
「俺だよ」
食卓の上で、直人の両手が組まれた。
「工房に電話したの、俺だ」
美穂は何か言おうとして、何を言おうとしたのかわからなくなった。
そうかもしれない、とは思っていた。思っていたことと、目の前で言われたことは、同じ重さではなかった。
コンロの鍋の味噌汁は、すっかり冷めていた。
「三月の初めに、工房から封筒が来た。美穂宛ての。俺のほうが先に帰って、郵便を取って」
直人の声が、そこで一度途切れた。
「開けるつもりは、なかったんだ。気づいたら、開けてた」
「……それで」
「合格って書いてあった。初夏から一年、向こうで、って」
合格。
その二文字を、直人の口から聞くのは初めてだった。本当なら十年前、通知の紙の上で読むはずの二文字だった。
「渡さなかった。何日か、鞄に入れたまま持ち歩いて。それから、会社の非常階段から、工房に電話した。本人は行けなくなったって、伝えた」
鞄に入れたまま、と美穂は思った。あの春、毎朝、玄関で見送った鞄だった。
あのころ、帰るたびに、美穂は先に帰っている直人に聞いた。郵便、何か来てた?
直人は、台所から顔を出して答えた。今日もチラシだけだったよ。
その声を、美穂は今でも思い出せた。いつもと同じ、やさしい声だった。大丈夫だよ、と言ったのも、同じ声だった。
「通知は」
聞けたのは、それだけだった。
「しばらく、会社の机にしまってた。何度か、渡そうと思った。……結婚してから、捨てた」
捨てた、という言葉が、食卓の上に置かれたまま動かなかった。
婚姻届を出して、指輪をはめて、食事会で乾杯をした。そのどこかで、通知はまだ、直人の机の引き出しの中にあったのだ。
直人は組んだ手に目を落とした。
「さっきも言ったけど、あのころの美穂は、ずっと不安そうだった。一年は、長いと思った」
さっきと、同じ言葉だった。
「受かったって知ったら、美穂は行くしかなくなると思ったんだ。本当は迷ってるのに、引き返せなくなるって」
「通知が来なかったって思ってる美穂が、少しほっとしたって言ったとき」
直人は、言葉を探すように食卓の木目を見た。
「君がほっとしてるのを見て、やっぱり、無理に行かないほうがいいんだと思った。だから」
だから、のあとは続かなかった。
美穂は、その言葉の並びに引っかかった。
ほっとしたことまで、行かなくてよかった理由にされている。
けれど、あの夜の自分は、合格していたことさえ知らなかった。
ほっとした。
たしかに、そう言った。前に住んでいた部屋の床に座って、泣いて、鼻をかんで、そのあとで。
泣いているあいだ、直人はずっと、美穂の背中をさすっていた。何も言わずに、ゆっくりと。
あの手は、何を知っていたのだろう。
「ほっとしたよ」
美穂は、自分で確かめるように言った。
「でも、行かないって、私は決めてない」
直人が顔を上げた。
「私は、決めてないの。迷ってたのは、私なのに」
直人の唇が動いた。けれど、声にはならなかった。
「……わかってる」
ようやく出た声は、かすれていた。
「わかってたんだと思う。たぶん、最初から」
「じゃあ、どうして」
直人は、答えなかった。
「……行ってほしくなかった」
組んでいた手が、ほどけた。
「それだけは、本当だ」
長い沈黙のあとで、直人はようやく言った。
「……ごめん。ずっと、言わなきゃいけないと思ってた」
「十年?」
直人は答えなかった。
美穂は椅子の背をつかんで、立ち上がった。足もとの鞄の中で、今朝、直人が詰めてくれた弁当箱が、空のまま小さく鳴った。
「お母さんに、電話してくる」
「お母さんには、俺から話すよ。俺が」
「いい。私が話す」
直人は、立ち上がりかけた姿勢のまま止まった。それから、ゆっくりと座り直した。
*
和室の襖を閉めた。
座卓の上の公園の絵を脇へよけて、携帯を置いた。ベンチの男の人は、まだパンを握ったままだった。
母は、二回目の呼び出し音で出た。
「美穂? 明日のことなら——」
「直人が、辞退してた」
電話の向こうが、静かになった。テレビの音もしなかった。
「工房に電話して、私は行かないって伝えたのは、直人だった。今、本人から聞いた」
自分の声が、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。
「お母さんは、知らなかった?」
「……明日、会ったときに、ちゃんと話そうと思ってたの」
「今、聞きたい」
自分でも驚くほど、短い声だった。
電話の向こうで、椅子を引く音がした。母が、台所の椅子に腰を下ろしたのだと思った。
母は、それでも答えなかった。
襖の向こうで、直人が椀を片づける音がした。一つ、また一つ、流しに置かれる。水の音はしなかった。
ずいぶん経ってから、母が言った。
「……工房から、一度、電話があったの」
(第7話 了)




