第6話 待っていれば、戻ってくる?
翌朝早く、高瀬さんから続きのメッセージが来ていた。今日の夕方なら、会社の近くで三十分ほど話せる、という。
朝食のとき、美穂は直人に伝えた。
「今日、仕事のあと、高瀬さんに会ってくる」
直人はトーストを皿に置いた。
「……そう。どこで?」
「高瀬さんの会社の近く。夕飯までには帰る」
「わかった」
直人はそれ以上聞かなかった。コーヒーを飲み干すと、いつもより五分早く家を出ていった。
和室の座卓には、ゆうべ空を塗り終えた公園の絵が置いてあった。朝の光で見ると、紙の上の空はちょうどいい暗さに落ち着いている。ベンチの男の人の指だけが、まだ直っていなかった。
*
昼過ぎ、売り場の隅で母の日の案内を描いた。カーネーションの鉢と、リボンをかけた小さな箱。色鉛筆を動かしているあいだ、美穂は母のことを考えないようにしていた。
休憩に入って携帯を見ると、母からメッセージが届いていた。
〈明日の夜、会える? 昔、顔合わせをしたお店で〉
両家の顔合わせをした、駅ビルの上の和食屋だった。美穂は〈行く〉とだけ返した。
*
高瀬さんは、駅前のコーヒーチェーンの奥の席で待っていた。十年前の食事会のときより髪が短く、目尻の皺が増えていた。
「美穂さん、久しぶり。直人は元気?」
「元気です。急に連絡して、すみません」
「いや、びっくりしたけどね。美穂さんから連絡もらうの、初めてだし」
「……今日のことは、直人も知ってます」
「ああ、それならよかった」
高瀬さんは、肩の力を抜くように笑った。
「工房って、遠くの、一年のやつだよね。あのころ、直人からよく聞いてた」
「何て、言ってました?」
「美穂さんの絵のこと、ほんとに買ってたよ、あいつ。向こうでやっていけるんじゃないかって、むしろ本気で思ってたんだよ」
美穂は、紙コップを両手で持った。思っていたのとは違う話だった。
「工房のパンフレット、居酒屋で広げて見せてきたこともあったな。俺の彼女、ここに受かるかもしれないって」
美穂の知らない直人だった。
「そういうこと、私には何も言わなかったんです」
「美穂さんの前では、格好つけたかったんじゃない? あいつ、そういうとこあるから」
「待つって、言ってましたか」
「言ってた。一年くらい、待てるって。何回も」
高瀬さんはマドラーでコーヒーを混ぜた。砂糖は入れていなかった。
「でも……平気そうではなかったな」
「平気そうじゃない?」
「飲むと、同じ話を何回もするんだよ。遠距離のこと。向こうで忙しくなったら、とか、電話に出なくなったら、とか。それで、最後はいつも」
そこで、高瀬さんは言葉を切った。
「いつも?」
高瀬さんは窓の外に目をやり、それから戻した。
「……俺がいなくても平気になったら、付き合ってる意味、あるのかなって」
言ってから、高瀬さんはカップを置いた。
「ごめん。酔っ払いの愚痴だから。そのまま受け取らないで」
「大丈夫です」
大丈夫ではなかったが、美穂はそう答えた。
「美穂さん、何かあった?」
「昔のことを、確かめたくて」
高瀬さんはしばらく黙っていた。
「それなら、直人に聞くのがいちばんだと思うよ。俺が覚えてるのは、酔っ払ったあいつだけだから」
その声は、さっきまでより慎重だった。
「美穂さん、今も描いてるの?」
「最近、また」
「へえ、そうなんだ。直人、喜んでるでしょう」
美穂は、頷くことも、首を振ることもできなかった。
*
駅から家までの道を、美穂はゆっくり歩いた。
向こうでうまくいかなかったら、という心配なら、わかる。帰ってくればいい、と言ってあげられる心配だ。
けれど高瀬さんが聞いたのは、別の心配だった。
電球が切れれば、気づいたときには直人が替えている。役所の書類も、郵便も、印鑑も。頼んだ覚えは、ほとんどない。そうやって十年以上、直人は美穂のそばで、いつも何かの役に立っていた。
落ちることではなく、受かって、向こうで平気になってしまうことを、直人は怖がっていたのだろうか。
そこまで考えて、美穂は足を止めた。
考えたくない、とは、もう思わなかった。ただ、それをどう考えればいいのかが、わからなかった。
*
家に帰ると、台所に味噌汁の匂いがしていた。
「おかえり」
直人は鍋の火を止めた。
「高瀬、どうだった?」
「直人のこと、ほめてた。私の絵のこと、本気で買ってくれてたって」
「……そっか」
直人はお玉を鍋に戻した。
「あいつ、何か変なこと言ってなかった?」
「変なこと?」
「いや。酔うと、話を大きくするやつだから」
「今日は、飲んでなかったよ」
美穂は食卓の椅子を引いて、座った。直人が二人分の椀を出そうとするのを、手で止めた。
「あとでいい」
直人は椀を持ったまま、向かいに座った。
「私が困らなくなったら、嫌だった?」
「そんなわけないでしょう」
答えは早かった。
「困らないなら、それがいちばんだよ。俺はただ、向こうでの生活とか、お金のこととか、一人で大丈夫かとか、そういうのが心配だっただけで。美穂、あのころ、夜中に起きて泣いてたこともあったでしょう。だから」
聞いたのは一つなのに、答えは三つ返ってきた。お金のことも、一人で暮らす不安も、美穂自身が口にしたことだった。
美穂は、そのどれにも頷かなかった。
コンロの鍋からは、もう湯気が上がっていなかった。
聞くことは、ゆうべから決まっていた。いや、もっと前から、本当はわかっていた。
「辞退の連絡、あなたがしたの?」
直人は、何も言わなかった。
洗面所で、洗濯機が止まった。終わりを知らせる電子音が三回鳴った。いつもなら真っ先に立ち上がって干しに行く人が、座ったままだった。
電子音がやんで、家の中が静かになった。
直人は、手にしていた椀を、そっと食卓に置いた。美穂の顔ではなく、食卓の何もないところを見ていた。
「……先生から、どこまで聞いた?」
(第6話 了)




