第5話 届かなかった返事
暗がりの中で、直人が息を吸う音がした。
「……美穂には、言いにくかったんだ」
「どうして」
「言ったら、行きにくくなるでしょう。せっかく受かるかもしれないのに、俺が不安がってたら」
やさしい理由だった。十年前に聞いていたら、きっと嬉しかったと思う。
「高瀬さんには、何て話してたの?」
「細かいことは、覚えてないよ。飲みながらだったし」
直人はそう言って、寝返りを打った。背中が、こちらを向いた。
直人が覚えていないことを、高瀬さんは覚えているかもしれない。そう思いながら、美穂は目を閉じた。眠れたのは、ずいぶん経ってからだった。
*
翌朝、醤油皿は洗われて、水切りかごに伏せてあった。二つの指輪は、食器棚の上の白い小箱に移されていた。十年前、指輪が入っていた箱だった。
直人がやったのだろう。何も言わずに、そういうことをする人だった。
*
昼前に、店長から電話があった。休みの日にごめんね、と前置きして、店長は言った。
「美穂さん、母の日のコーナーの案内、また描いてもらえる? マグカップのとき、評判よかったから」
「……はい。描きます」
母の日、という言葉で、ゆうべの母の声を思い出した。うろ覚えのまま、言いたくないの。
昼、台所で一人で食べながら、携帯で出版社の募集ページを開いた。応募の画面には、作品のほかに、簡単な経歴を書く欄がある。
生まれた年と、勤め先。それから、絵の経歴。
美穂は指を止めた。
学生のころ、佐伯先生に習ったこと。十年前、工房の研修生選考を受けたこと。その先に何と書けばいいのか、わからなかった。不採用、ではなかった。辞退、と書けるはずもなかった。
結局、その行は空けたまま、画面を閉じた。
*
夕方、かつて住んでいた区の区役所の前で、直人と待ち合わせた。
窓口はもう閉まっていた。ガラス扉の向こうで、職員がカウンターの書類を片づけている。
婚姻届は、出しに来る前の晩、以前の部屋の小さなテーブルで書いた。直人が先に自分の欄を埋めて、ペンを美穂に渡した。
自分の名前を書き終えたとき、美穂は、これで決まったのだと思った。何が決まったのかは、うまく言えない。ただ、これから先のことを、もう一人で考えなくていい。それが、ひどく楽だった。
翌朝、訂正があったときのための印鑑を忘れたことに窓口の前で気づいたのは、美穂のほうだった。青くなっていると、直人が自分の鞄から、美穂の印鑑を出した。
「ゆうべ、テーブルに置きっぱなしだったから」
あのときも、美穂は笑ってしまった。
通りの向かいの洋食屋は、まだあった。あの日、届けを出したあとに、二人でオムライスを食べた店だ。
同じ窓際の席で、同じものを頼んだ。
「ここのオムライス、こんなに小さかったっけ」
「直人が大きくなったんじゃない」
「関節みたいに?」
美穂は笑って、スプーンを取り落としそうになった。
食べ終わるころ、美穂は経歴の欄のことを話した。
「工房のこと、書いたほうがいいのかな」
「書かなくていいんじゃない」
直人はスプーンを置いた。
「十年前のことだし。選考を受けただけなら、経歴ってほどでもないでしょう」
受けただけ、と美穂は思った。受かっていたのに、と言い返す言葉は、喉のところで止まった。直人が気をつかってくれているのも、わかっていた。
「……そうかもね」
*
その夜、美穂は押し入れの箱を開けた。
スケッチブックの表紙をめくると、乾いた音がした。二十八歳の自分の線は、思っていたより細く、同じところを何度もなぞっていた。迷いが減った、という先生の言葉の意味が、ようやくわかった気がした。
最後のページに、四つ折りの紙が挟まっていた。工房の募集要項の控えだった。
〈採用者には、三月十日までに届くよう通知を郵送します。不採用の方への個別の通知はいたしません〉
この一行を、あの春は何度も読んだ。十日が過ぎた次の日の朝、郵便受けが空なのを自分の目で確かめて、意味を受け入れた。
箱の底には、表紙の擦れたノートが残っていた。美穂はそれを手に取りかけて、やめた。
台所では、直人が米を研いでいた。
美穂は要項を食卓に広げた。
「届くよう郵送、だって」
直人は手を拭いて、紙を覗き込んだ。
「……ちゃんと取ってあったんだ」
「スケッチブックに挟まってた」
炊飯器の蓋が閉まり、予約の電子音が鳴った。
「あのころ、郵便、先に取ってくれることが多かったよね」
直人は食卓の向かいに座った。手を拭いた布巾を、膝の上で小さく畳む。
「そうだね。俺のほうが、帰りが早かったから」
それだけだった。
以前の部屋の郵便受けには、鍵が二本あった。美穂の鍵は、いつも鞄の底に入ったままだった。
次に聞くことは、わかっていた。わかっていて、口が動かなかった。
直人は畳んだ布巾をまた広げて、角を揃え直していた。
美穂は要項を四つ折りに戻し、スケッチブックに挟み直した。
*
和室で一時間ほど空を塗ってから、美穂は携帯の連絡先を開いた。
高瀬さんの名前は、結婚してすぐのころ、三人で飲んだときに登録したきりだった。一度も使ったことがない。
何度か書き直して、短い文を送った。
〈ご無沙汰しています。美穂です。突然すみません。十年前、私が絵の工房に応募していたころのことで、お話を伺えないでしょうか〉
送ってから、寝室へ行った。直人はまだ起きていて、ベッドで本を開いていた。
「高瀬さんに連絡した」
直人が顔を上げた。
「あのころのこと、聞いてみたくて。黙って聞くのは、嫌だったから」
「……そう」
直人は本を閉じた。
「俺から聞いてみようか。そのほうが、あいつも話しやすいだろうし」
「ううん。自分で聞く」
直人は何か言いかけて、それから「わかった」と言った。
返事は、日付が変わる前に来た。
久しぶりだと驚く言葉と、工房のことは詳しく知らないという断りのあとに、一行だけ、こうあった。
〈あのころ、直人が何を心配していたか、という話なら覚えています〉
(第5話 了)




