第4話 指輪のない指
「……昔のことだから」
ようやく、母はそう言った。
「ちゃんと思い出してから話す。電話じゃなくて」
「思い出すって、何を?」
「うろ覚えのまま、言いたくないの」
母の声は慌ててはいなかった。慌てていない人を、どう問い詰めればいいのか、美穂にはわからなかった。
「今週のうちに、会える?」と母が言った。「顔を見て話したいから」
母のほうから会おうと言うのは、めずらしかった。
浴室の戸が開く音がした。
「……わかった。また連絡する」
電話を切っても、美穂は画面を見ていた。
うろ覚え、と母は言った。親戚の命日も、近所の家の子の受験の結果も、聞けばすぐに答える人だった。
首にタオルをかけて、直人が出てきた。
「お母さん?」
「うん。工房のこと、何か知らないか聞いてた」
直人は髪を拭きながら、「なんて?」と聞いた。
「今度、会って話すって」
「……そう」
直人は洗面所へ戻った。ドライヤーの音が、いつもより長く続いた。
*
美穂は流しで手を洗った。
泡を流していて、指輪の内側が曇っているのに気づいた。白っぽい汚れが、溝に沿って薄く溜まっている。いつからこうなっていたのか、思い出せなかった。最後に外したのがいつだったかも。
外そうとすると、関節のところで引っかかった。石鹸をつけ直し、回しながら引くと、ようやく抜けた。
指輪のあった場所は、まわりより白く、細くくぼんでいた。
古い歯ブラシに洗剤をつけて、内側をこすった。汚れはすぐに落ちた。蛍光灯にかざすと、二人の頭文字の刻印が見えた。
この指輪を受け取ったのは、入籍の何日かあとだった。店から帰ったその足で、前に住んでいた部屋の台所で、互いの指にはめた。結婚する前から、二年、二人で暮らしてきた部屋だった。食事会は、その週末だった。
選んだのは直人だった。駅前の小さな宝飾店で、美穂が「どっちでもいい」と言うと、直人は飾りのない細いほうを指さした。
「こっちにしよう。絵を描くとき、引っかからないほうがいいでしょう」
あのとき、それがとても嬉しかった。絵を、まだ描いていていいと言われた気がした。
今日は、指輪の日だった。
拭いた指輪を、美穂は醤油皿に載せた。はめ直そうとして、やめた。
ドライヤーの音がやんで、直人が台所に来た。醤油皿の上の指輪を見て、それから美穂の手を見た。
「外したの?」
「汚れてたから」
美穂は皿の縁を指で押さえた。
「それに、今日は指輪の日でしょう」
直人は自分の左手に目を落とした。黙って流しの前に立ち、蛇口をひねる。石鹸を泡立てて、指輪を回した。なかなか抜けなかった。めったに外さないうちに、関節のほうが太くなったのかもしれない。直人は顔をしかめ、何度か回し直して、ようやく外した。
外した指輪を、直人はしばらく掌に載せていた。それから、醤油皿に置いた。
二つの指輪が並んだ。
「変な感じだね」と直人が言った。
「うん」
「明日は、婚姻届の日だっけ」
「うん。仕事のあと、区役所のほうに寄れる?」
「大丈夫。早めに上がる」
美穂は親指で、自分の指のくぼみをなぞった。指輪はもうないのに、指はまだ、その形をしていた。
*
直人が先に寝室へ行ったあと、美穂は和室の座卓に向かった。
公園の絵を広げ、空に色鉛筆を当てる。背景を描き直すなら、今夜から始めないと締め切りに間に合わない。
一段落とした青を、端から塗り重ねていく。スキャンすると青すぎた空は、塗り直すと、今度は紙の上で沈んで見えた。画面と紙のあいだのどこかに、自分の思っている空がある。
ベンチの男の人の指にも、もう一度だけ手を入れた。パンをちぎる指には、まだ見えなかった。
一時間ほどで、空の三分の一が埋まった。
台所の明かりを消すとき、醤油皿の上の二つの指輪が目に入った。暗がりの中で、そこだけが小さく光っていた。
*
寝室に入ると、明かりはもう消えていた。カーテンの隙間から、街灯の光が細く差している。
ベッドに入ってから、美穂は聞いた。
「私が受かってたら、どうしてたと思う?」
暗がりの中で、直人がこちらを向く気配がした。
「待ってたよ」
問いが終わるのと、ほとんど同時だった。
「一年でしょう。待ってたよ、普通に」
普通に、と美穂は口の中で繰り返した。
工房のある町までは、電車を乗り継いで半日かかる。会えるのは、せいぜい月に一度だっただろう。
それを今の自分に置き換えてみる。この家を出て、知らない町で一年暮らす。朝、弁当を受け取らない毎日。
自分にそれができるのか、わからなかった。わからないまま、口が動いていた。
「今、私が一年離れて暮らしたいって言ったら?」
返事の代わりに、シーツの擦れる音がした。直人が体を起こしたのだと、気配でわかった。
「どうして今、そんな話になるの」
さっきより硬い声だった。
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
「……考えてみただけ。自分が今でも、そういうことができるのかなって」
直人は何も言わなかった。
外を車が通り、天井に映った光の筋が、ゆっくり横切って消えた。
待ってたよ、という声と、どうして今、という声を、美穂は暗がりの中で並べてみた。同じ人の声だった。
しばらくして、直人がもう一度横になった。
「待ってたっていうのは、本当だよ」
静かな声に戻っていた。
「あのころ、高瀬にもそう言ってたし。あいつなら覚えてると思う」
「高瀬さん?」
直人の古い友人で、あの食事会にも来ていた人だ。乾杯のあと、直人の背中を何度も叩いていた。
「美穂が遠くに行くかもしれないって、何回か、飲みながら話したから」
美穂は天井を見た。
あの春、直人は工房のことを、ほとんど口にしなかった。書類を出した日に「すごいじゃん」と言い、結果を待つあいだは「大丈夫だよ」と言った。眠れない夜には、黙ってホットミルクを作ってくれた。それだけだった。不安そうな顔を、美穂は一度も見ていない。
その顔を、高瀬さんは見ていた。
「工房のこと、高瀬さんには話してたんだね」
(第4話 了)




