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第3話 本人ではない誰か

昼休み、美穂は店のバックヤードで佐伯先生に電話をかけた。今朝の返信の末尾に、電話番号が添えられていたのだ。


 段ボールの積まれた狭い部屋に、折りたたみの椅子が二つある。パートの先輩は外へ食べに出ていて、換気扇の回る音だけがしていた。


 三回目の呼び出し音で、先生が出た。


「美穂さん。お電話ありがとうございます」


 十年以上ぶりに聞く声は、記憶より低かった。


「メール、ありがとうございました。急にすみません」


「いいえ。私のほうこそ、妙なことを書いてしまって」


 先生は、言葉を選ぶように間を置いた。


「先にお伝えしておきますね。私が覚えていることは、とても少ないんです。工房から、あなたが採用されて、そのあと辞退したと連絡をもらった。それは確かです。残念で、しばらく人に話す気になれなかったくらいですから」


「……はい」


「ご本人ではなかった、というのは、メールに書いたとおり、ぼんやりした記憶です。誰からだったのか、何と言っていたのかは、正直に言って思い出せません」


 美穂は、膝の上の弁当箱の蓋を指で押さえた。


「工房に、直接聞いてみることはできないでしょうか」


「今朝、メールをお送りしたあとで、私も工房に電話してみたんです。十年前の応募の記録は、保存の期間を過ぎて、もう残っていないそうです。当時の担当の方も、今はいらっしゃらなくて」


「……そうですか」


 先生はそこで言葉を切り、それから続けた。


「ただ、私のほうの書類は、残っているかもしれません」


「書類、ですか」


「推薦した生徒の分は、年ごとにまとめて取ってあるんです。工房からの報告も、たぶん一緒に。十年前の分は、去年実家を片づけたときに、向こうの物置へ移してしまいましたけど」


 先生の実家は、電車で二時間ほどの町だという。


「週の後半に、ちょうど母の様子を見に帰る予定があります。そのときに探してみます。見つからなかったら、それもきちんとお知らせしますね」


「すみません。お手数をおかけして」


「いいえ。私も、知りたいですから」


 電話を切ったあとも、美穂はしばらく携帯を握っていた。


 本人ではない誰か。


 工房は、本人でなくても辞退を受け付けたのだろうか。受け付けたのだとしたら、どんな人なら、そう信じてもらえたのだろう。


 採用の通知は、どこへ届いたのだろう。そう思いかけたところで、換気扇の音の向こうで、売り場のレジが鳴った。


 昼休みは、あと十分残っていた。


    *


 夕方、駅の改札で直人と待ち合わせた。昼の電話のことは、店を出てから話そうと決めていた。


 食事会をした店は、川沿いの古いビルの二階にあった。十年前は小さなビストロで、今は昼がカフェ、夜はワインを出す店になっている。


 階段は、記憶のままだった。一段だけ高さの違う段があって、あの日、美穂はそこでつまずきかけた。


「ここ」と直人が言った。「美穂、ここで転びそうになったよね」


「覚えてるの?」


「ヒール、慣れてなかったから」


 店の壁は白く塗り直され、照明も新しくなっていた。カウンターの位置が変わり、奥にあった小さな衝立はなくなっている。窓際の長いテーブルだけが、十年前と同じ場所にあった。


 二人はそこに座った。


「何にする?」


「直人と同じでいい」


 直人はメニューを眺めて、コーヒーを二つと、林檎のタルトを二つ頼んだ。美穂が甘いものなら林檎を選ぶことを、聞かずに知っている頼み方だった。


 あの日、二人はこの窓を背にして座った。直人の両親と、美穂の母。数人の友人。乾杯の挨拶をしたのは直人で、グラスを持つ手が細かく揺れて、最初の一言がなかなか出てこなかった。


「緊張してたよね、あのとき」


「してないよ」


「してた。『本日は』って二回言ってた」


 直人は窓の外を見て笑った。


「言ってたかも」


 美穂も笑った。あの日の直人は、本当に緊張していた。それが嬉しかったのを覚えている。この人は、自分との結婚を、こんなに大事なことだと思ってくれている。そう感じた。


 その記憶は、今思い出しても、ちゃんと温かかった。


 タルトの皿が下げられるとき、直人が小さな声で「今日は全部食べたね」と言った。美穂は、テーブルの下で夫の靴を軽く蹴った。


    *


 帰り道、川沿いの遊歩道を歩きながら、美穂は佐伯先生のことを話した。


「今日、先生に電話したの」


「うん」


「辞退の連絡、私じゃない人からだったかもしれないって」


「……本人じゃない人?」


「うん。誰だったかはわからないって。工房にはもう記録が残ってないから、先生が昔の書類を探してくれるみたい」


 直人は黙って歩いた。川面に、対岸のマンションの明かりが揺れていた。


「……美穂は、誰だと思う?」


「わからない」


 嘘ではなかった。考えようとすると、その手前で頭がよそを向いた。


    *


 家に着くと、直人は先に風呂へ入った。


 美穂は台所の椅子に座り、携帯の画面に母の名前を出した。


 応募書類には、自分の携帯のほかに、もう一つの連絡先として実家の電話番号も書いた覚えがあった。


 十年前、直人の前で泣いた次の日、美穂は母に電話をした。落ちちゃった、と言った。母は「そう」と言い、一呼吸おいて「残念だったね」と言った。それから、「でも、あなたには直人さんがいるじゃない」と。


 あのときは、慰めだと思った。


 今思い返すと、母はあのとき、何も聞かなかった。何人受けたのか、先生は何と言っているのか。ふだんなら、こちらが嫌になるほど聞いてくる人なのに。


 呼び出し音が四回鳴って、母が出た。


「どうしたの、こんな時間に」


「ごめん。ちょっと聞きたいことがあって」


 電話の向こうで、テレビの音が小さくなった。


「お母さん、昔、工房のことで、何か連絡を受けたことある?」


「……工房って?」


「私が十年前に受けた、絵の。遠くの」


「急にどうしたの」


「先生から手紙が来て。私、落ちたんじゃなかったらしいの」


 電話の向こうで、何かを置く音がした。湯呑みか、リモコンか。


「そう……」


 母はそれきり黙った。驚いた声ではなかった、と美穂は思った。驚いていないのか、驚きすぎて声が出ないのか、電話越しではわからなかった。


 風呂場で、シャワーの止まる音がした。


「お母さん」


 自分の声が震えているのがわかった。


「私が落ちたって電話したとき、お母さんは、何を知ってたの?」


 母は、すぐには答えなかった。

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