第2話 行きたかった?
直人は、湯呑みを両手で包んだまま、黒い画面のほうを見ていた。
「……辞退?」
「うん。先生は、そう聞いたって」
「美穂が?」
「私が」
直人は小さく息を吐いた。笑ったようにも、ため息のようにも聞こえた。
「先生の、記憶違いじゃないかな」
柔らかい言い方だった。決めつけるというより、そうであってほしい答えを、そっと手に取ってみせるような声だった。
「十年も前だし。先生、たくさん生徒を見てきただろうし。ほかの誰かの話と混ざってるとか」
「……そうかもね」
美穂は頷いた。頷きながら、自分がその説明を待っていたことに気づいた。先生の記憶違い。誰かとの取り違え。それで済むなら、明日も明後日も、今日と同じように、向かい合って夕飯を食べられる。
「工房の人が間違えたのかもしれないし」と直人は続けた。「名前の似た人がいたとか」
「うん」
どちらも黙った。冷蔵庫が低く唸りはじめ、すぐにやんだ。
「でも」
直人が、湯呑みをテーブルに置いた。
「あのとき……少しほっとしたって、言ってたよね」
美穂は顔を上げた。
覚えていた。工房からの通知を待つのをやめた夜、前に住んでいた部屋の狭い床に座って、自分はそう言った。泣いて、鼻をかんで、そのあとで。
「言ったよ」
否定する理由はなかった。
「行くのが怖かったのも、本当だから」
直人の肩から、力が抜けたのがわかった。ほんのわずかな変化だった。張っていた糸が一本だけ緩んだような、それだけのこと。
美穂はそれを見て、なぜか目を逸らした。
夫が安心したのは、わかった。わからないのは、何に安心したのかだった。
*
直人が先に寝室へ行ったあと、美穂は和室の隅の座卓に向かった。
座卓にはクリアファイルが三つ重なっている。この半年で描いた絵だった。
描きはじめたきっかけは、たいしたことではない。勤めている雑貨店で、新しく入ったマグカップの売り場に手書きの案内を出すことになり、店長に頼まれて隅に小さな絵を添えた。湯気の立つカップと、窓辺の猫。それを見た客が「これ、どなたが描いたんですか」と聞いてきた。それだけのことだった。
その夜、押し入れの奥の箱から、十年ぶりに色鉛筆を出した。古いスケッチブックと、表紙の擦れたノートが一緒に出てきた。どちらも開かずに、箱へ戻した。
今、ノートパソコンの画面には、小さな出版社の募集ページが開いてある。挿絵・装画の持ち込み選考。作品は五点まで、データで提出。締め切りは、あと五日。
美穂はファイルから一枚ずつ絵を抜き出し、畳の上に並べた。十一枚あった。
五枚に絞るつもりで、さっきから三枚しか減っていない。
いちばん自信のある一枚は、昼下がりの公園の絵だった。ベンチでパンをちぎる年配の男の人と、足もとに集まる鳩。その上に、春先の薄い空。男の人の指は四回描き直したが、まだ、ちぎるというより握っているように見える。
プリンターの蓋を開け、その一枚を読み取り面に伏せる。蓋の縁から、スキャンの光が細く漏れた。
画面に出てきた絵は、実物より青みが強かった。空の色が、自分の思っていた空ではない。補正の数値をいじるたびに、今度は人物の肌が濁る。
佐伯先生の言葉を思い出した。背景の色は、もう一段落としていい。
美穂は補正をやめ、絵そのものを見た。たしかに、背景が主張しすぎている。描き直すなら、二日はかかる。
「まだやるの」
振り向くと、直人が襖のところに立っていた。寝間着の上にカーディガンを羽織っている。
「もうちょっとだけ」
「それ、例の出版社の?」
「うん。五枚選ばないといけなくて」
直人は畳の上の絵を見下ろした。何か言いかけて、やめたように見えた。代わりに、別のことを聞いた。
「本当は、そんなに行きたかった?」
工房のことだと、すぐにわかった。
美穂は、答えを選びそうになった。
ううん、そうでもないよ。もう昔のことだし。
そう言えば、直人はきっと笑って「そっか」と言う。美穂も笑って「おやすみ」と言う。今夜はそれで終わる。
口を開きかけて、やめた。
「行きたかったよ」
直人の表情は動かなかった。
「怖かったのとは、別のことだから」
しばらくして、直人は「……そっか」と言った。美穂が想像していた「そっか」とは、どこか違う声だった。
「おやすみ。あんまり遅くならないようにね」
「うん」
襖が閉まった。
美穂は、画面に映る青すぎる空を、しばらく見ていた。
*
日付が変わる前に、美穂は佐伯先生へメールを書いた。手紙の最後に、急ぎの用ならこちらへ、とアドレスが添えてあったのだ。
最初の文面は、落ちたと思った春のことから書きはじめて、画面の半分を埋めた。先生に聞きたいのは、そういうことではなかった。消しては書き直し、結局、短くなった。
〈お手紙ありがとうございました。お尋ねの件ですが、私は工房に辞退の連絡をしていません。採用のお知らせも、受け取った覚えがありません。ずっと、落ちたのだと思っていました。何かの間違いかもしれませんが、もしご記憶のことがあれば、教えていただけないでしょうか〉
送信して、ノートパソコンを閉じた。
*
返事は、翌朝届いていた。
直人はいつもどおり弁当を二つ詰め、一つを美穂に渡して「行ってきます」と言った。ゆうべの「そっか」とは違う、いつもの声だった。
直人が出かけたあと、美穂は玄関で靴を履きながら携帯を開いた。傘立てには、直人が持ち手に滑り止めのテープを巻き直してくれた紺色の傘が、いつもの場所に立っていた。
佐伯先生の文面は、昨日の手紙よりさらに短かった。
〈お返事を読み、当時のことをもう一度思い返しておりました。はっきりとは申し上げられないのですが〉
美穂は靴べらを持ったまま、次の行を読んだ。
〈辞退のご連絡は、ご本人からではなかったように記憶しています〉




