第1話 辞退した覚えはありません
あなたは、不採用ではありませんでした。
その一行で、便箋をめくりかけた美穂の指が止まった。
青いインクの、わずかに右へ傾いた字だった。十年以上前、課題の講評の余白に書き込まれていた字と変わらない。佐伯先生は昔から、大事なことほど短く書く人だった。
美穂は便箋を持ち直し、最初から読み直した。
〈お便りに「あの工房には落ちてしまいましたが」とあり、驚いています。あなたは、不採用ではありませんでした。私の記憶では、工房から、採用のあとに辞退のご連絡があったと伺っています。当時は何かご事情があったのだろうと思い、こちらからお尋ねするのは控えました。私の思い違いでしたら、どうか許してください〉
その先には、美穂が送った三枚の絵の感想が続いていた。線から迷いが減った、とあった。背景の色はもう一段落としていい、とも。いつもなら何度でも読み返したはずの言葉が、目の上を滑っていく。
台所では、直人が明日の朝の準備をしていた。食器を棚に戻す音、米を研ぐ音、水を切る音、炊飯器の予約ボタンの短い電子音。朝、直人が持っていく弁当の米だ。十年、ほとんど毎晩、同じ順番で聞いてきた音だった。
「美穂、明日のパン、焼くの軽めでいい?」
「……うん。軽めで」
声は普通に出た。そのことに、ひとまず安心した。
流しに向かう夫の背中を、美穂はしばらく見ていた。なぜ見ているのかは、考えないようにした。
手紙は夕方、直人が郵便受けから取ってきた束の中にあった。週末のあいだに溜まっていた郵便だった。チラシと電気料金のお知らせの間から、直人はその封筒だけを抜き出して渡してくれた。
「佐伯先生って、あの先生? 絵の」
「そう。よく覚えてるね」
「前に、話してくれたでしょう」
直人はそれだけ言って、手を洗いに行った。そのまま、夕飯の支度にかかった。美穂は封筒を食器棚の上に置いて、食卓に箸を並べた。返事が来たのが嬉しくて、あとでゆっくり読もうと思ったのだ。
夕飯の途中、直人が箸を置いた。
「今年さ、あの店に行かない?」
「あの店?」
「プロポーズしたところ。十年だし」
美穂は笑った。直人がそういうことを自分から言い出すのは珍しい。記念日はたいてい家で、いつもより上等なワインを開けて終わる。それで十分だと、二人とも思ってきた。
「どうしたの、急に」
「十年くらいは、ちゃんと祝ってもいいかなって」
照れたように言って、直人はまた箸を取った。
それが、一時間前のことだ。
美穂は便箋を折り目どおりに畳んだ。畳んでから、また開いた。
何年かに一度、数人だけ研修生を採る工房だった。十年前の春、その工房からの通知は来なかった。来なければ、それが答えだと思っていた。
推薦してくれた先生には、落ちたと伝える手紙を何度か書きかけて、結局出さなかった。今度の便りで、十年たってようやくそのことに触れたのだった。
落ちたのだと思った一週間ほどあとに、直人に結婚を申し込まれた。これからのことは、二人で決めよう。直人はそう言った。
辞退した覚えは、どこにもなかった。
*
翌朝、直人の焼いたトーストは、いつもどおり美穂の分だけ焼き色が薄かった。
向かいでコーヒーを飲む夫に、美穂は言った。
「ゆうべのお店の話。いいよ、行こう」
「ほんと?」
「でも、あのお店は最後にしたい」
直人がカップを下ろした。
「最後?」
口にしながら、美穂は自分が何を言おうとしているのか、半分しかわかっていなかった。
「今日から記念日まで、七日あるでしょう。その間に、結婚したところから逆にたどってみない? 食事会のこととか、指輪とか、婚姻届を出しに行った日とか。それで最後の日に、あのお店」
「逆に」
「うん。ゴールから、スタートのほうへ」
直人はカップの縁に目を落として考え、それから笑った。
「美穂らしいね、そういうの」
らしい、と言われて、美穂は曖昧に笑い返した。自分らしいのかどうかは、わからなかった。
ただ、結婚から逆にたどっていけば、最後はあの春に行き着く。思い出を一つずつ手に取っていけば、手紙と自分の記憶がどこで食い違ったのか、見つかる気がした。
同じくらい、何も見つからなければいいとも思っていた。
「じゃあ、一日目は?」
「食事会の料理。家で作ろう」
*
その夜、食卓には春キャベツのポタージュと鯛のソテーが並んだ。
十年前、入籍のあとで家族と数人の友人だけを呼んだ、小さな食事会。その店のコースを、二人で思い出しながら作った。ソースの味はどうしても思い出せず、バターとレモンでごまかした。
「あの日、美穂、鯛ほとんど食べてないんだよ」
「そうだっけ」
「テーブル回ってて、戻ってきたら下げられてた。すごい顔してた」
「してない」
「してた。だから今日は、全部食べて」
直人は自分の皿から鯛をひと切れ、美穂の皿に移した。
美穂は笑ってしまった。
笑ってから、ゆうべのことを思い出した。何度も読み返した便箋と、台所に立つこの人の背中。自分はあのとき、どんな目で夫を見ていたのだろう。その目のまま、こうして笑っている自分が後ろめたかった。
*
洗い物を終えると、直人がほうじ茶を淹れてくれた。
ソファで湯呑みを受け取りながら、美穂は言った。
「佐伯先生の手紙ね」
隣に座りかけていた直人の動きが、一瞬止まった。少なくとも、美穂にはそう見えた。けれど直人はすぐに腰を下ろし、テレビのリモコンを脇へよけた。
「うん。なんて?」
「絵、褒めてくれた。背景の色は、もう一段落としていいって」
「よかったじゃん」
「うん」
ほうじ茶の表面に、天井の明かりが小さく映っていた。
言わなくてもいいのかもしれない、と思った。先生の思い違いかもしれない。十年も前のことだ。
けれど言わずにいたら、残りの六日間、自分はずっと、この話をしないために笑うことになる。
「あとね」
直人がこちらを見た。
「私、あの工房、受かってたらしいの」
直人は、すぐには何も言わなかった。
電源の落ちたテレビの黒い画面に、並んで座る二人がぼんやりと映っていた。
美穂は、もう一つの言葉を口にした。
「それでね。私が辞退したことになってるんだって」




