第10話 送る前の夜
「……わかった」
直人は、それ以上何も言わなかった。
流しには、一人分の皿と小さな鍋が、洗って伏せてあった。直人は一人で夕飯を済ませたらしかった。
美穂は食卓に座り、青いファイルを開いた。
付箋には、直人の几帳面な字が並んでいた。〈家賃 毎月二十七日引き落とし〉〈保険 年払い・十月〉〈美穂の口座 給料振込〉。
自分の口座にいくら入っているのか、美穂は知らなかった。給料はそこに振り込まれ、ほとんど手をつけないまま、毎月の携帯代だけが引き落とされていた。
付箋の貼られたページに、その口座の残高が書き写してあった。思っていたより、多かった。
電卓を出して、毎月の数字を書き写していく。家賃、光熱費、食費、通信費。一人分なら、いくらになるのか。
部屋を借りて暮らし始めるには、足りる額だった。けれど、毎月足りない分を引き出していけば、いつかなくなる。そこから先の生活が、美穂にはまだ描けなかった。
三十分ほどで、ファイルを閉じた。わかったことより、わからないことのほうが多かった。それでも、どこを見ればいいのかは、わかった。
*
ベランダに、ゆうべ直人が遅くに干した洗濯物が残っていた。取り込んで畳むのは、いつも美穂の役目だった。
直人のシャツを、一枚ずつ畳んだ。袖を後ろへ回して、三つに折る。十年、同じ畳み方をしてきた。考えなくても、手が動いた。
畳み終えて、和室へ行った。
座卓の上で伏せていた公園の絵を、表に返した。
締め切りは、明日の夜だった。
色鉛筆を取り、ベンチの男の人の指を、もう一度だけ描き直した。親指の付け根に影を足し、パンの端をわずかに引き伸ばす。
今度は、ちぎっているように見えた。少なくとも、握ってはいなかった。
十一枚のうち、八枚までは残してあった。そこから先が決まらない。
プリンターの蓋を開け、公園の絵を読み取ってみた。画面の空は、やはり青すぎた。補正の数字を動かすと、今度はベンチの木が赤く濁る。
何度か試して、美穂は手を止めた。
居間に戻ると、直人はテレビもつけずにソファに座っていた。
「スキャン、手伝ってほしいの」
直人が顔を上げた。
「色が、どうしても合わない。プリンターの設定、直人のほうがわかるでしょう」
「……いいの?」
「スキャンは、お願いしたい」
美穂は、一度言葉を切った。
「でも、どれを送るかは、私が決める」
直人は頷いて、立ち上がった。
*
直人はプリンターの設定画面を開き、いくつかの項目を見比べてから、色の補正を切った。読み取り直すと、画面の空が、紙の上の空に近づいた。
「最初の設定が、写真用になってた」
「それだけ?」
「それだけ」
「どこを変えたのか、教えて」
直人は画面を指さして、項目を一つずつ説明した。美穂は横で、手帳にそれを書き取った。次からは、自分でできるように。
残りの絵は、美穂が自分で読み取った。
直人は、隣で画像を一枚ずつ確かめていた。読み取りのたびに、蓋の縁が細く光った。二人は黙って、画面に絵が出てくるのを待った。
ほんの一瞬、いつもの夜のようだと思った。
思ってしまったことに、美穂は戸惑った。
畳の上に、八枚を並べた。
公園の絵。窓辺の猫。夜の駅前の屋台。雨上がりの商店街。洗濯物の揺れるベランダ。
公園と猫と屋台は、もう決めていた。
美穂は、商店街の絵とベランダの絵を手に取った。どちらも同じくらい好きで、同じくらい不安だった。
「どっちがいいと思う?」
口に出してから、気づいた。
直人は二枚を見下ろした。
「商店街のほうが、構図が——」
そこで、直人は口を閉じた。
美穂も、何も言えなかった。聞いたのは、自分だった。
「ごめん。美穂が決めるんだったね」
「……ううん。聞いたのは、私」
美穂は、二枚を見比べた。
「構図が、何?」
直人は、ためらってから続けた。
「商店街のほうは、奥まで道が抜けてて、目が先へ行く。ベランダは、手前に寄ってる」
「……そうだね」
言われてみれば、そのとおりだった。
それでも、美穂はベランダの絵を残した。商店街の絵が劣っているとは思わなかった。ただ、洗濯物の陰の色を塗っていたとき、いちばん楽しかったのは、こちらだった。
スキャンが終わると、直人は居間へ戻っていった。
*
五枚目が、決まらなかった。
残った三枚を並べても、どれもしっくりこない。十年前の自分がどんな線を引いていたのか、もう一度見てみたかった。
押し入れの奥から、あの箱を出した。
スケッチブックの下に、表紙の擦れたノートがあった。手に取ると、思っていたより軽かった。
開いてみると、日記だった。何年も続かなかった、気まぐれな日記。三月の日付が、いくつか並んでいた。
三月十一日。
〈今日も来なかった。十日までに届くはずだったから、たぶん落ちた。 直人の前で泣いた。泣いてから、少しほっとした。もう行かなくていいんだと思った。 ほっとした自分が、いちばん嫌だった。行きたかったのに〉
美穂は、そのページから目を離せなかった。
ほっとした、と自分は書いていた。行きたかったのに、とも書いていた。
どちらも、受かっていたことを知らない人の字だった。
ページをめくった。数日分の空白のあとに、もう一つ日付があった。
三月十八日。
〈直人に、結婚しようと言われた。 これからのことは、二人で決めようって。 泣いた。今日は、嬉しくて泣いた〉
字が、ところどころ跳ねていた。急いで書いたのだろう。嬉しくて、急いで。
一週間のあいだに、自分は二度泣いていた。
美穂はノートを閉じなかった。開いたまま、膝の上に置いていた。どちらのページも、あの春の自分が書いたものだった。どちらも、嘘ではなかった。
ノートを箱に戻さず、スケッチブックと一緒に座卓の上に置いた。明日、もう一度読むために。
*
日付が変わる前に、携帯が震えた。
佐伯先生からのメールだった。
〈遅くにすみません。実家の物置で、当時の書類を見つけました。工房からの報告書です。明日の朝、写真をお送りします〉
その下に、一行だけ続いていた。
〈受け付けた日付が、分かりました〉
(第10話 了)




