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女神と、悪魔と ―過去にある未来―  作者: 一ノ瀬 俊晶


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第七話 ―― 甘さと、恐怖と ――

 デリーを出て、三日が経った。


 街道は、南東に伸びていた。埃っぽい風が吹き、遠くに岩肌の丘が見えた。三人は黙って歩いていた。ガルドが先を歩き、その後ろを、リリアナとアゼルが追っていた。


 リリアナは、ガルドとの沈黙には慣れ始めていた。だが、アゼルとの沈黙には慣れそうもない。何か言おうとして、やめる。それを、何度か繰り返した。

 アゼルが、ちらりとこちらを見た。

「何か言いたそうですね」

「いや……」

「三回くらい、口を開きかけてましたよ」

「……数えてたの?」

「なんとなく」


 ガルドだけが、いつも通りだった。


-----


 アグラの街に入ったのは、昼過ぎだった。


 街道の入り口は、北から荷を積んできた馬車と、北へ荷を運ぶ馬車とで賑わっていた。石屋の中では、カンカンと大理石を割る音が響いていた。ヤムナー川の湿った風が、埃と混じって流れてくる。


 甘い臭いが、漂っていた。

「何の臭いだろ?」

 リリアナが呟いた。独り言のつもりだったが、アゼルが答えた。

「ペータです。アグラの名物菓子ですよ」

「菓子?」

「食べたことないですか」

「ない」

「それは大変だ」


 アゼルが、路地の菓子屋の前で立ち止まった。白い塊がいくつも、籠に積まれている。いくつか買い、紙に包んで、リリアナに差し出した。

「どうぞ」

「え、いいの?」

「これを食べたことないなんて、人生損してますよ。この表面のシャリシャリ感が、堪らないんです」


 リリアナは受け取った。指先に、ざらりとした砂糖の粒が触れる。一口、かじった。

 表面が、しゃり、と崩れた。中から、柔らかい甘さが広がる。

 甘かった。ただ、甘い。それだけなのに、笑顔になった。


「おいしい」

「でしょう。ガルドさんも食べますか」

「いらん」

「食べた方がいいですよ。表情が固いですし」

「失礼な」

「疲れも吹っ飛びますよ」

「そ、そうか?」

 ガルドはペータを受け取った。


 しゃり、と音がした。


「もう一つ、くれるか?」

 ガルドは、大の甘党だった。二人は、笑いを堪えた。


-----


 その晩、リリアナは宿で、術式の記録帳を広げていた。

 結界の術式を眺める。何度も見た図だった。蛇の牙に、結界ごと貫かれた時の映像が、頭の中で繰り返される。


 結界を、外側に向けたら?


 術式を組み直す。指先に光が滲んだ。だが、広がるだけで、飛ばない。


 圧縮したら?


 イメージを変える。広げるのではなく、一点に集める。光が小さくなった。密度が上がる感覚があった。


 指先から、弾けた。


 小さな光の塊が、壁に当たって消えた。

 当たった。威力はまだ弱い。だが、飛んだ。手応えがあった。

 リリアナは記録帳に書き留めた。術式の図を描き、注釈を加える。もう一度試す。今度は、少し大きく。壁に、小さな焦げ跡がついた。


 ふと、手が止まった。

 こんなものが、一晩で。少し前の自分なら、できなかったはずだ。

 リリアナは壁の焦げ跡を、じっと見る。

「……ちょっと、やりすぎたかな」


-----


 翌朝、ガルドとアゼルの部屋に、リリアナもいた。


 ガルドから口を開いた。

「東の廃神殿に、騎士の亡霊が出るらしい」

「情報収集してたんですか」

 とアゼルが尋ねた。

「酒場で聞いた」

「ガルドさんって、酒場で喋れるんですね」

「……何が言いたい」

「いえ、意外で」

「必要なことは喋る」

「三日間、必要なことがなかったということですね」

「うるさい」


 リリアナは、肩を震わせた。


「亡霊が出る、という以外、全く情報がない。見た者は、みんな必死で逃げ出したそうだ。それを、これから確認しに行く」

「了解しました」

 アゼルが即答した。


-----


 神殿が見えてきた時、リリアナは足を止めた。

 白大理石の柱が、朝の光を受けて鈍く輝いていた。かつては壮麗だったはずだ。アーチ状の門には、花の彫刻が刻まれている。今は苔に覆われ、中庭には草が生い茂り、噴水が横倒しになっていた。


 三人は、神殿の敷地内に入った。


「すごい……」

「これは、凄いですね」

 アゼルが、柱を見上げた。

「どうして、廃墟になったんでしょうか?」

 ガルドが、酒場で聞いた話を始めた。

「この神殿のすぐ傍に街があったらしい。その街が洪水で流された。治水が難しいと判断され、街は再建されなかった。街に人がいなくなれば、神殿もこうなるさ」


 神殿の入り口に着いた。

 ガルドが、先に中へ入った。

 ゆっくりと、警戒しながら、歩みを進める。

 何かが、じとっと、こちらを観察している――そんな気にさせられる。


 突然、白い柱の陰から、それが現れた。


 首のない、騎士だった。朽ちた鎧をまとい、片手に剣を提げている。そして、もう片方の小脇に――自分の兜を、抱えていた。額にあたる位置に、紋様が浮かんでいる。

 抱えられた兜の、暗い空洞が、ぽっかりと、こちらを向いた。


 目が、合った。


 その瞬間、頭の中に、冷たいものが流れ込んできた。

 リリアナの視界が、暗く沈む。瓦礫になった村。動かない父。動かない母。見たくないものが、次々と、瞼の裏に押し寄せる。喉が、詰まった。足が、動かない。

 幻だ。分かっている。なのに、振り解けない。

 隣で、アゼルが膝をついた。顔が、蒼白だった。

「……かあ、さん」

 掠れた声が、漏れた。

 アゼルにも、視えている。彼の、死者が。

 空洞の視線は、合った者の中から、いちばん深い喪失を引きずり出す。動けなくなった獲物を、剣が刈る——それが、この魔物の狩り方だった。


 兜の空洞が、ゆっくりと、ガルドを向いた。


 何も、起きなかった。


「下らん」


 ガルドだけが、平然と立っていた。剣を構え、首なし騎士へ、まっすぐ踏み込む。

 ――この男には、効いていない。

 薄れゆく意識の隅で、リリアナは、それを見ていた。

 ガルドの剣と、首なし騎士の剣が、噛み合う。鋼の鳴る音が、神殿に響いた。

 だが、敵は速い。剣を弾かれ、ガルドの左腕を、刃が裂いた。

「……ぐっ」


「ガルドさん!」


 声を、絞り出した。

 恐怖が、まだ喉を塞いでいる。それでも、リリアナは指先に術式を編み始めた。昨夜の形。力を一点に集中させ、圧し込んでいく。指先が熱くなり、光が拳ほどの塊へと凝縮される。

 幻を振り払うように、それを放つ。

 光が、首なし騎士の胸で爆ぜた。鎧が、大きく傾ぐ。その隙を、ガルドは待っていた。


 踏み込んで一閃。


 紋様が砕け、首なし騎士が崩れ落ちた。抱えていた兜が、床に転がる。同時に、頭を覆っていた死の気配が、嘘のように消えた。


 リリアナは、その場に座り込んだ。膝が、笑っていた。

 ガルドが、剣を鞘に納める。

「デュラハン……。よく、正気を保ったな」

 誰にともなく、低く呟いた。

 アゼルが、ようやく我に返り、ガルドの左腕に手をかざした。光が走り、傷が塞がっていく。

「すみません。何も、できませんでした」

「気にするな。あれに抗える方が、おかしい」


 白い大理石の上に、欠片が舞い上がった。ゆらゆらと漂い、リリアナの前で止まった。


 弾けた。三人に流れ込んできたのは、ガルドの記憶だった。



 夜だった。


 村が燃えていた。煙が空を覆い、炎の色が、地面を赤く染めていた。怒声が聞こえた。魔物の唸り声が聞こえた。


 女が倒れていた。


 ガルドは駆け寄り、膝をついた。

 名前を呼んだ。返事がなかった。もう一度呼んだ。返事がなかった。


 女を抱き上げた。


 温かくなかった。もう、温かくなかった。

 それでも、離せなかった。

 炎が揺れ、風が吹く。

 女の髪が、ガルドの腕の中で静かに揺れた。


 その左手の、薬指に。細い指輪が、月の光を弾いていた。どれだけ時間が経ったか、分からなかった。


 ガルドは、ただ抱いていた。



 光景が、消えた。


 リリアナは、ペンダントを握っていた。いつ握ったのか、分からなかった。目が、滲んでいた。

 ガルドが、隣に立っていた。左手の小指に触れていた。細い指輪だった。

 記憶の中で、薬指に光っていた、あの指輪。

 すぐに、手を離した。何も言わなかった。

 しばらくして、ガルドが歩き出した。二人が、その後に続いた。


 廃神殿を振り返った。大理石が、琥珀色に輝いていた。

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