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女神と、悪魔と ―過去にある未来―  作者: 一ノ瀬 俊晶


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第六話 ―― 癒やしと、温かさと ――

 噂は、デリーの街道沿いまで流れていた。

 魔物に傷つけられた娘が、宿で眠ったまま目を覚まさない。アゼルがその話を聞いたのは、街の手前の茶店だった。旅人が二人、声を潜めて話していた。

 アゼルは茶を置いて、立ち上がった。


-----


 宿の前に、丸い顔の女が立っていた。

 アゼルのローブを見た瞬間、女の顔が変わった。

「僧侶さん、ですか」

「そうです。こちらに傷を負った少女がいると聞いて――もしかしたら、お力に……」

 カヴィタは、僧侶が言い終えるのを待たなかった。


「来てくれた……来てくれたんだね」


 声が震えていた。縋りつくような目だった。女はアゼルの手を、両手で握った。皺の多い、温かい手だった。それだけで、三日間どれほど待ち続けていたかが、伝わってきた。

「街の僧侶さまには、もう手に負えないって……祈るしかないって、言われて」

 女の声が、途切れた。


 奥から、ラジュが出てきた。無口な男だった。だがアゼルを見ると、深く頭を下げた。言葉はなかった。それだけで、十分だった。

「こちらへ。早く」


 カヴィタに案内された部屋は、窓から光が差し込み、その光が、ベッドに横たわる娘の顔を照らしていた。

 白い顔だった。

 傍らに、男が立っていた。感情を読み取りにくい目で、アゼルを見ていた。

「ガルドだ」

「アゼルです。旅の僧侶です」

 男は何も言わなかった。ただ、少し脇に退いた。


 アゼルはベッドの傍に膝をついた。娘の左肩の包帯を確認する。包帯をずらすと、まだ出血が続いていた。血の匂いが、かすかに鼻をつく。

 右手を傷口に当て、左手で少女の左手を握り、祈りを込めた。


 光が、走った。

 止まらなかった出血が止まり、青ざめていた顔に、赤みが戻っていく。毒すら、洗い流されていくようだった。

 カヴィタが、小さく声を上げた。ラジュが扉の傍で、壁に手をついた。

 ガルドだけが、その光を、じっと見ていた。

 教団で、数え切れぬ僧侶の治癒を見てきた。だが、これほど鋭く、明るい光は、覚えがない。


 ……ただ者ではないな。


 アゼルはそのまま、手を当て続けた。念を入れるように、もう一度、光を走らせる。


 その時だった。

 娘の睫毛が、動いた。


-----


 最初に感じたのは、温かさだった。

 肩に、何かが触れている。温かくて、大きな手だった。父の手とも、カヴィタの手とも違う。知らない温かさだった。


 リリアナは、ゆっくりと目を開けた。


 顔が、近かった。

 知らない男が、自分の左肩に触れ、左手を握っていた。茶色の髪。真剣な目。その目がリリアナの目と合った瞬間、男が少し、驚いた顔をした。

「……目が覚めた」


 反射的に、身を引いた。

 肩に、鋭い痛みが走る。

「あっ、動かない方が」

 男が慌てて手を伸ばした。リリアナは、その手を避けた。また、肩が痛んだ。

「いたっ」

「まだ、動かないで」

 男が困ったような顔をした。リリアナは、顔が熱くなっているのを感じた。痛みのせいだ、と思った。たぶん。


「リリアナっ!」

 カヴィタが飛んできた。リリアナの顔を両手で挟んで、まじまじと見た。手のひらが、頬を包む。

「よかった、よかったよ……」

 カヴィタの目が、赤くなっていた。

 ラジュが、扉の傍に立っていた。何も言わなかった。ただ、目を細めて、顔を背けた。肩が、小さく震えていた。

 ガルドが部屋の隅から、静かにこちらを見ていた。何も言わなかった。だが、その目が少しだけ、やわらかくなった気がした。


-----


 夕食の席で、ガルドとアゼルの会話が始まった。

 アゼルという名だと分かった。旅の僧侶だという。旅で出会った人々を治療するのが目的で、目指す場所はないらしい。

 ガルドは、しばらくアゼルを見ていた。

 あの治癒の光。この男の力は、これからの旅に、必ず要る。

 ガルドは、賭けることにした。リリアナとの旅の、本当の理由を話し始めた。


 話を聞き終えると、アゼルはしばらく黙っていた。それから、口を開いた。

「一緒に行かせて下さい」

 ガルドが、アゼルを見た。

「こちらは本当に助かるが……本当にいいのか。命の保証はないぞ」

「わかっています」

「目的の場所もない、と言ったな。なら、なぜ」


 アゼルは、自分の手のひらを見た。少女を治した、あの手を。

「理由は、わからないんです」

 言葉を探すように、ゆっくりと続けた。

「でも、行かないと駄目だ。そういう……衝動を、受けたんです。うまく言えませんが」


 ガルドは、しばらくアゼルを見ていた。それから、小さく頷いた。

「変な男だ」

「よく言われます」


-----


 翌朝、リリアナが元気に食堂にやってきた。


「アゼルさん、ありがとう! すっごく元気になった! 今まででいちばん元気」


 はち切れんばかりの笑顔に、アゼルからも思わず笑顔がこぼれた。

「ガルド、また手伝って」

 リリアナは空の本に結界の術式を書き込み、ガルドはそれを収める石箱を探しに出かけた。


-----


 三人が宿を出立する日が、やってきた。

 リリアナは、カヴィタとラジュを食堂に呼んだ。

 ガルドは食堂の奥の角に、石箱を据えた。


「見ててね」


 リリアナは、石箱の中の魔導書に命を吹き込む。

 淡く光る膜が、宿を、街全体を包む。光は、ゆっくりと薄れ、やがて見えなくなった。カヴィタが窓の外を見た。ラジュが、息を飲んだ。


「街全体に、結界を作ったわ。これでもう、娘さんのような犠牲者は出ないよ」

「あんた……リナのことを、知ってたのかい」

 カヴィタとラジュは堪えきれず、大粒の涙と嗚咽を漏らした。

「ありがとう、ありがとう……」

「ありがとう……」

 リリアナは、小さく頷く。


「じゃあ、行こう!」

 リリアナの勇ましい号令を、ガルドが制止した。

「待て。宿代を払ってない」

 財布を取り出そうとするガルドに、カヴィタは笑った。泣きそうな顔のままで。


「いらないよ。それより――私の娘を、ちゃんと護りなさいよ!」


 リリアナもまた、泣きそうな顔で笑った。

 リリアナはカヴィタの手を、がっしりと両手で握った。カヴィタが、強く握り返した。骨が軋むほどの力だった。

 ラジュは、目を細めてリリアナを見ていた。

 三人で、輝く朝日に照らされながら、宿を後にした。

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