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女神と、悪魔と ―過去にある未来―  作者: 一ノ瀬 俊晶


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第五話 ―― 蠢きと、僧侶と ――

 デリーの宿の、小さな部屋。

 オクラスの眼は、そこを視ていた。

 ベッドに横たわるリリアナの傍らで、僧侶が祈り続けている。だが、傷口の出血は止まらず、毒の熱に浮かされた顔は、青いままだった。

 リリアナは、三日間、眠ったままだった。


-----



 深淵の暗がりに、白いローブの者が、四人、集まっていた。


「いつまで待てというんだ」

 支配のヴォルガスの声が、暗闇を揺らした。その頭巾には、唇の形が刺繍されている。

「一つの街で、足止めを食らっている。このままでは、計画が崩れる」

 怒りというより、苛立ちだった。計算が狂う時の、あの不快な感触。


 歪曲のデミウルゴスは、黙っていた。その頭巾には、耳が刺繍されている。

 眼のオクラスの視線が、デリーの地から、禍いのモルボスへと向けられた。オクラスの頭巾には、眼が刺繍されている。

 禍いのモルボスは、最初から動いていなかった。ただ、そこにいた。その頭巾には、下を向いた右の掌が刺繍されている。

「グロストを使う」

 声は、静かだった。それだけに、響いた。


 ヴォルガスが、動きを止めた。

「あいつを?」

「リリアナが死んでは、台無しだ。生かし続ければいい。それが——拷問のグロストの、本質だ」


-----


 深淵の片隅に、音のない部屋があった。

 壁はない。床もない。ただ、暗がりが、部屋の形をしていた。

 その中央に、拷問のグロストはいた。

 今日も、働いていた。

 その頭巾には、牙が刺繍されている。


 グロストは、何者かを拷問していた。

 興味は、一点。この生き物が、どこまで保つのか。

「おおっと」

 声に、わずかな落胆が滲んだ。

「これは、やり過ぎたな」

 手を、かざす。

 その手から、僧侶の祝福と寸分違わぬ、温かい光が溢れた。慈悲そのものの、光だった。

 光が引くと、傷は、綺麗になくなっていた。


 ほどなくして、音のない部屋から、グロストの気配が消えた。

 あとには、牙の刺繍の頭巾だけが、残されていた。



 僧侶の名は、アゼルといった。

 旅をしていた。行き先は、決めていなかった。困っている者がいれば、立ち寄り、治癒を施し、また歩く。それだけの日々だった。


 町の噂を聞いたのは、街道沿いの宿だった。隣のテーブルの商人が、顔を青くしながら話していた。一夜にして、魔物に襲われた町。生存者は、少ない。

 アゼルは翌朝、その町へ向かった。


-----


 その町は、瓦礫の臭いがした。焦げた木と、土と、もう一つ——鉄の臭いが、混じっていた。


 町の入り口で、立ち止まった。

 家々の形が、残っていなかった。石壁が崩れ、梁が地面に散らばっていた。声をかけながら、歩いた。返事は、なかった。また、声をかけた。足音だけが、やけに大きく響いた。


 崩れた石壁の陰に、小さな手が見えた。

 駆け寄った。子供だった。七つか、八つか。瓦礫の下敷きになっていた。慎重に、掘り出す。瓦礫をどかすたび、土がぱらぱらと落ちた。息は、ある。だが左の脇腹から、血が滲んでいた。石の破片が、刺さっている。


 抜くのは、危険だ。だが放置すれば、失血する。

 アゼルは両手を、子供の傷口に当てた。手のひらに、温かい血が触れる。祈りを込めた。光が滲み、治癒魔法が走る。傷口の周囲が、かすかに温かくなった。

 だが、止まらない。

 もう一度。光が走る。また、止まらない。破片の周囲から、じわじわと血が広がり続けている。子供の顔が、青くなっていく。唇の色が、薄くなっていく。

 アゼルの額に、汗が浮いた。


 力が、足りない。


 分かっていた。自分の治癒魔法では、届かない傷がある。それは、知っていた。

 だが、この子供を前にして——その事実は、もう、ただの知識ではなかった。


 子供の手が、力なく、地面に落ちた。

 その瞬間、声が聞こえた。


「我の見立てでは、その者は、まだ死なんぞ」


 姿は、ない。どこから来るのかも、分からない。ただ、耳の奥に、直接響いた。

「無論、このままだと、確実に死ぬがな」

「そんなことくらい、俺にも分かる」

「我を、取り込め。さすれば、お前の治癒魔法は、想像を絶するものになる」


 アゼルは、動きを止めた。

 声の正体が、分からない。悪魔か。魔物か。それとも、何か、別のものか。

 子供の胸が、浅く、上下している。

「この命を、手放すのか?」

 同じ声が、もう一度、響いた。

 アゼルは、目を閉じた。

 葛藤は、長くはなかった。


「お前の力を、貸してくれ……」


 何かが、体の中に入ってきた。冷たくはなかった。温かくもなかった。ただ、そこに、在った。

 両手を、傷口に当てる。光が走った。今度は、違った。破片が抜け、傷口が塞がる。出血が、止まった。子供の顔に、色が戻ってくる。

 息を、吹き返した。

 アゼルはしばらく、その場に座ったまま、動けなかった。手が、震えていた。子供が助かった安堵と、自分の中に入ってきた何かへの戸惑いが、混ざり合っていた。

 それが、何なのか。

 アゼルには、分からなかった。



「ヴォルガスよ。あとは、頼んだぞ」

 深淵の声に、唇の刺繍が、応えた。

 その夜、僧侶は知らぬまま——拷問のグロストを隠匿する呪いが、静かに、かけられた。


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