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女神と、悪魔と ―過去にある未来―  作者: 一ノ瀬 俊晶


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第四話 ―― 宿と、スパイスと ――

 街の名は、デリーといった。

 リシケシから南へ数日、街道を下った先に広がる大きな街だった。市場が立ち並び、香辛料の臭いが路地に満ちている。クミンと、唐辛子と、油の匂い。人の数が多く、声が多く、色が多かった。

 リシケシを失う前、こんな場所に来てみたいと思ったことがあった。

 思い出した瞬間、胸が痛んだ。


 ガルドが宿を探しに行く間、リリアナは市場の外れの石段に腰を下ろしていた。左肩の傷が、まだ疼いている。包帯の下で、熱を持っていた。

 ガルドが戻ってきた。

「今日の宿を見つけたぞ」

 示した指の先、路地の奥に小さな宿屋があった。看板もろくにない宿だったが、中から、スパイスの温かい香りが漂っていた。


-----


 声をかけてきたのは、女だった。四十前後だろうか。丸い顔に、人懐っこい目をしていた。リリアナの肩を見て、すぐに顔色を変えた。

「怪我してるね」

「……少し」

「ご飯、食べた?」

「ううん」

「こっちへおいで」

 リリアナは、宿の奥の食堂に案内された。


 女はカヴィタといった。夫のラジュと二人で、この宿屋を営んでいるという。

 ラジュが黙って皿を出した。皿が、ことりと音を立てる。オレンジ色のとろりとしたものが、たっぷりとかかっていた。湯気が立っている。

「バターチキンだよ」

 カヴィタが言った。

「この街で生まれた料理さ。食べたことある?」

「ないです」

「食べてみな」

 一口、食べた。

 温かかった。スパイスが舌に広がり、バターの丸みが、それを包んだ。甘くて、少し辛くて、深かった。喉を通る時、じんわりと熱が落ちていく。

「おいしい!」

 夢中で食べた。スプーンが皿を擦る音がした。心が、少しだけ軽くなった気がした。


 カヴィタは、寂しそうな、それでいて優しい眼差しで、リリアナを見ていた。ラジュも、何も言わなかった。ただ皿が空になると、また盛ってくれた。その目もまた、細められていた。


-----


 翌朝、ガルドは紋章の魔物の情報収集に出かけた。リリアナは何の気力もなく、宿の入り口でぼうっと座っていた。

「リリアナ! ちょっと手伝って! 手が回らないの」

 そんなに忙しそうには、見えなかった。

「作り方を教えるから、バターチキンを作ってみて」

 戸惑っているうちに、エプロンを押しつけられていた。

「そこのガラムマサラを取って!」

「あ、これですか?」

「そう、それ!」

 鍋から、香りが立ち上る。カヴィタの手は止まらない。あれを取れ、これを混ぜろ、火が強い、と次々に飛んでくる。そのペースに圧倒され続け、気づけば、バターチキンが完成していた。

 夕方、ガルドが宿に帰ってきた。食堂で、リリアナとカヴィタの作ったバターチキンに舌鼓を打った。


 翌朝も、ガルドは情報収集に出かけた。リリアナはまた、宿の入り口でぼうっと座っている。

 今度は、ラジュが話しかけてきた。

「ちょっと、手伝ってくれんか」

 リリアナは、ベッドメイクを手伝わされた。シーツを張る手が、だんだん様になってくる。

 それが終わると、今度はカヴィタ。

「買い物に行くよ、付き合いな!」

 客のはずなのに、と思いながらも、その勢いには、断れなかった。


-----


 二週間が経った。リリアナはその間ずっと二人に働かされ、バターチキンを一人で作れるまでに上達していた。

 その夜、ガルドがリリアナの部屋にやってきた。

「実はな、一週間も前に、紋章の魔物は見つかっていてな」

「なんで言わなかったんですか?」

「余りにも、お前ら三人が楽しそうでな。言い出せなかった」

「信者の解放は、どうするんですか?」

「……耳の痛いことを言うな」

 ガルドは、真剣な眼差しをこちらに向けた。

「ここの夫婦には、娘がいたそうだ。ちょうど、お前くらいの歳の」

「え? その娘さんは?」

「紋章の魔物に、殺されたそうだ」


 少しの沈黙の後、ガルドは続けた。

「突然、街の入り口に、空から魔物が降りてきてな。殺されてしまったそうだ」

 ガルドは、ひとつ溜息をついた。

「夫婦は、元気のないお前を見て、自分の娘と重ねたんだろう」

 リリアナは、黙っていた。

 ガルドが、ふと左手の小指に触れた。細い指輪だった。男の指には、細すぎる輪だった。リリアナは見ていたが、何も言わなかった。


 カヴィタが笑う顔を思った。ラジュが無言で皿を盛り直す手を思った。二人が自分に向けていた、あの目の意味が、今になって分かった気がした。寂しそうで、優しくて、どこか痛そうな目。

 胸の奥が、静かに痛んだ。

「でも、もう前に進まないと」

「わかった……」

 ガルドは、地図を開いた。

「街の北の森に、紋章の魔物が出ているという。行けるか」

「はい」


-----


 翌朝、二人は北の森へ向かった。夫婦には今日中に戻ると伝え、宿を離れた。


 森に入るとすぐに、気配があった。

 木々の上から、それは舞い降りた。

 獅子の頭、山羊の胴、そして蛇の尾。背には、竜のような翼。リシケシのヘルハウンドとも違う、異形の獣だった。額の紋様が、木漏れ日の中で鈍く光っていた。


 ガルドが前に出る。だが獣の狙いは、リリアナだった。

 翼がひと打ちすると、風圧とともに、影がまっすぐ落ちてきた。

 とっさに、両手をかざす。

 淡い光の膜が、目の前に半円を描いた。だが、薄い。覚えたばかりの結界は、頼りないほど薄い。

 蛇の尾が鞭のようにしなり、膜を打つ。

 光の膜が、たわむ。腕に、ぐっと重みが伝わってくる。


 たわんで、たわんで——破れた。


 肩に、鋭い痛みが走った。

 蛇の牙が、肩を抉っている。

 体が宙に浮き、地面に叩きつけられた。息が、できない。リシケシで打った、同じ左肩が、燃えるように熱い。

 服が、赤く滲んでいく。痛みで視界が白く明滅した。傷口から、痺れるような何かが、じわりと広がっていく。

 立ち上がろうとした。足が震えて、言うことを聞かない。

 獣がリリアナを一瞥した。もう動けないと見切ったように、ガルドへ向き直る。


 ガルドが、踏み込んだ。

 蛇の尾を斬り落とし、返す刃で、獅子の喉を貫く。

 獣が崩れ落ちた。その額から、水晶の欠片がこぼれ、宙に舞う。ゆらゆらと漂い、リリアナの前で止まった。


 弾けた。それは、リリアナの記憶。ガルドの目の前に、リリアナの記憶が広がった。そして、それはリリアナ自身にも。



 流れ込んできたのは、笑い声だった。

 ――ほらっ、いまパパって言ったぞ

 ――あなた、狡いわ! ずーっとリリアナと遊んでるじゃない。はい、私がママですよー

 ガレンの豪快な笑い声。セリアの呆れたような、でも嬉しそうな声。

 ――マーマっ、マーマっ

 ――やったわ、ママって言ったわよ

 幼いリリアナが二人の間を走り回りながら、どちらかの名前を呼び続けている。



 光景が、消えた。

 同時に、リリアナは左肩の痛みで、気を失った。


-----


 ガルドはリリアナを背負い、宿に帰ってきた。

 傷だらけのリリアナを見て、カヴィタが飛んできた。

「何があったの?!」

「キマイラにやられた。毒を持っている」

 ガルドの声は、硬かった。

「あんたっ、僧侶を呼んできて!」

 急いでリリアナをベッドに寝かせ、カヴィタは必死の形相で手当てをする。

「リリアナっ! リリアナっ!」

 僧侶が、治療を試みた。だが、傷口は塞がらず、毒の気配も、消せなかった。

「これは……私の手には負えない。後は、祈るしか……」

 僧侶は、リリアナに祈りを捧げた。

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