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女神と、悪魔と ― ― 過去にある未来 ― ―  作者: 一ノ瀬 俊晶


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断 ~ 探したもの、忘れたもの ~

 デリーから北へ、幾日か。

 街道沿いの、賑やかな街だった。

 市が立っているらしく、通りは人と荷で埋まっている。


 その雑踏の隅から、女の子の泣き声が聞こえた。

「痛い……」

 駆け寄ると、七つほどの少女が、転んで手のひらを擦りむいていた。

 傍らに母親がしゃがみ込み、娘の手を優しく包んでいる。

「痛かったね」

 傷口の砂を、丁寧に払っていた。


「私が診ましょうか」

 アゼルが声をかけると、母親はほっとしたように頭を下げた。

「お願いします」


 アゼルは少女の前に膝をつき、両手を添えた。

 淡い光が、手のひらを包む。

 赤く滲んでいた傷が、ゆっくりと消えていった。


「あっ……治った!」

 少女は嬉しそうに、手を握ったり開いたりする。


 それから、母親に向かって、その手のひらを突き出してみせた。

 次の瞬間、その手が、アゼルの袖を掴んだ。

「見て! もう痛くない!」

 ぐいぐいと、引っぱる。

「わ、分かりました。分かりましたから」

 アゼルは笑いながら、袖を押さえた。


「ありがとうございました」

 母親は、何度も頭を下げた。

「あの、おいくら……」

 慌てて、懐を探る。

「いえ、要りません」

「でも」

「本当に、いいんです」


 少女は元気よく走り出し、少し先で振り返った。

「お母さん! 早く!」

「はいはい」

 母親が、笑いながら立ち上がる。


 その時、アゼルの視線が、その手に止まった。


 小さな傷。

 火傷の跡。

 ひび割れた指先。

 娘の傷は治せても、母親の手は、長年の家事と畑仕事で荒れていた。


「お母さん」

 アゼルは、静かに呼び止めた。

「え?」

「少し、お手を」


 母親は、不思議そうに手を差し出す。

 アゼルは、そっと両手で包んだ。

 柔らかな光が、指先を包んでいく。

 ひびが消え、火傷の跡も、薄れていく。


 母親が、目を丸くした。

「こんな……私まで」

「いつも頑張っている手ですから」


 母親は、自分の手を、まじまじと見つめた。指を、開いたり閉じたりする。

「……ずいぶん久しぶりに見た気がします。自分の手なんて」

 照れたように笑って、ぺこりと頭を下げ、娘を追いかけていった。


 その手の温もりが、母を思い出させた。



 あの日、僧になったばかりのアゼルは、母を助けられなかった。

 どんな高僧でも、助けられなかった。それは、分かっている。


 一人でも多くの人を助けるんだと、飛び込んだ道。

 それが、逆に、壁となった。


 あの時、修行に行くと言わなければ。

 母は、助かっただろうか。

 いや、少しでも良いから、長く生きられただろうか。

 そんな後悔が、いつも頭を巡る。



 少し先から、少女の声が届いた。

「ありがとう!」


 アゼルは、手を振り返した。


 感謝の言葉を聞くたびに。

 母に「これでいいんだよ」と言われる幻影を、探していた。


-----


 人波を抜けようとしたとき、荷を積んだ荷車とすれ違った。

 ぐ、と袖が引かれる。

 荷台の縁から、釘が一本、顔を出していた。

 外そうとして、糸の鳴る音がした。

「あ」

 押さえたときには、袖口が指の幅ほど、口を開けている。

 荷車は止まらない。振り返りもしない。

 アゼルは開いた袖を見下ろし、小さく息を吐いた。

「……仕方ないか」


 通りを見回すと、小さな雑貨屋があった。

「あそこで、針と糸を買うか」


 店に入り、店主に声をかける。

「針と糸を下さい」

「僧侶さん、どこか破けたのかい?」

「袖が解れてしまって」

 アゼルは、解れた袖を店主に見せた。

「じゃあ、嫁さん呼ぶから、直してやるよ。その服、脱ぎな」

「いや、この先も必要になると思うので、買わせて下さい」

「そうかい? じゃあ、お代はいいよ。持っていきな」

 店主が、手を振った。

「僧侶さんから金を取ったら、バチが当たっちまう」

「いやいや、そういう訳には」


 アゼルは、肩掛け鞄から財布を出し、銅貨を一枚、摘まみ上げた。

 その時、ふいに、何かの気配を感じた。

 顔を上げる。

 木箱に入った木炭の上に、リスが座っていた。


「え!? リス?」


 指先が、緩んだ。

 銅貨が、鞄の奥へ滑り落ちる。

「あっ」

 慌てて手を突っ込むが、指に触れない。

 邪魔をしているのは、あの本だった。

 赤い革の、重い一冊。


「よいしょ、と」


 鞄から引っぱり出し、傍らの古書の山のてっぺんに、ぽん、と載せる。


 両手が、空いた。

 改めて、鞄を探る。

「あった!」

 摘まみ出した銅貨を、店主に渡した。

「これでお願いします」

「お代はいいのに。毎度あり」


 店を出ようとしたとき、母娘が入れ違いに入ってきた。

 アゼルは、もう一度、木炭の上を見た。

 リスは、いなかった。

「……気のせい?」


「わあ。面白そうな本」


 女の子の、声だった。

 アゼルは振り返らず、店を後にした。

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