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女神と、悪魔と ― ― 過去にある未来 ― ―  作者: 一ノ瀬 俊晶


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断 ~ 枕元の五人 ~

 寺院での修行を終え、アゼルは旅立とうとしていた。


 朝のまだ冷たい光の中、仲間たちがぞろぞろと見送りにやってきた。

 誰もが名残惜しそうな、それでいてどこか可笑しそうな顔をしている。

 いちばん年かさの一人が、アゼルの肩をぽんと叩いた。

「アゼル兄、元気でな」

 アゼルは胸を張り、わざとらしく鼻を鳴らした。

「お前も僕を見習って、しっかり修行を続けるんだぞ」

 仲間たちが顔を見合わせる。

 若い一人が、心底困ったように眉を下げた。

「でも、アゼル兄を見習っても、立派な僧侶になれる気がしないんだよね」

「違いない」

 誰かが即座に頷いた。

 どっと笑いがはじける。

 アゼルも、へらへらと笑った。


 ふと、その笑みが緩んだ。

 アゼルは辺りを見回した。

「院長は?」

 仲間たちが肩をすくめる。

「さあ、凄い勢いで、書庫の方に走って行ったけど」

「見送りには来てくれないのか、忙しいのかな」

 言いながら、アゼルの眉尻が少し下がった。

 最後くらい、ちゃんとお礼が言いたかったな。


-----


 その時、遠くから荒い足音が近づいてきた。

 院長だ。

 白い髭を振り乱し、息を切らして駆けてくる。

 その手には、赤い革で綴じられた本が握られていた。

「待て、これを持っていけ」

 院長は、その一冊をぐいと突き出した。

 アゼルは半歩引いて、手のひらを突き出す。げんなりした顔だ。

「嫌ですよ、荷物になります」

 なおも押しつけてくる院長。

「だから、嫌ですって、重いです」

 押す院長、避けるアゼル。しばし無言の攻防が続いた。

 やがて院長は動きを止め、声を落とした。

「頼む、わしの遺言だと思って持って行ってくれ」

 その見開かれた目の奥に、アゼルははっきりと恐怖を見た。

 いつも飄々とした院長の、そんな顔は初めてだった。

 アゼルの茶化す気配が、すっと引く。

「何があったんです?」


-----


 院長はごくりと喉を鳴らした。

「わしの枕元に、人が立っておったのだ」

 声をひそめ、起きる前の話をし始める。

 アゼルは腕を組み、気のない相槌を打った。

「なんか、よく聞く話ですね。この間も、仲間がそんな事を言ってましたよ」

「よく聞く話ではない。枕元に立ったのは、なんと、五人じゃ!」

 院長がかっと目を見開き、指を五本突き立てる。

 アゼルは片眉を上げた。

「五人が、わしの顔をずっと覗き込む。わしの身体は、指一本、動かせなかった」

 言いながら、院長の顔からみるみる血の気が引いていく。

「彼らが言うんだ。『この本を、今日旅立つ者に持たせろ』と」

「わしはな、わしは、わかったと言ったのじゃ。だが、女が――」

 院長の声が震えた。

「『このまま、解放すると忘れちゃいそうじゃない?』」

「大男は、そうだなと返事をして、わしを持ち上げ、回すのだ」

 院長は両腕で宙を抱えるような仕草をして、ぐらりと身をよろめかせた。

「わかった、わかったから、よしてくれ」

「大男は、わしを寝かせた。『これで十分だろ』」

 ほっと息をつきかけた、その顔が――

「しかし、女は――『いや、まだでしょ』」

 再びひきつる。

「女の背後から、たくさんのリスが出てきた」

 院長の両手の指が、わきわきと蠢いた。

「その大量のリスが、わしをくすぐるのだ、全身を」

 顔じゅうの皺をくしゃくしゃに歪める。

「もうダメだ。夢の中で、確かにわしは、笑い死んだ」

 絞り出すような声だった。

 額に脂汗を滲ませ、院長は肩で息をした。

「その時、ようやく、目が覚めたのだ」

「生まれて九十年、あんな事は初めてじゃ」

 アゼルはまじまじと院長の顔を見つめた。

 げっそりしているはずなのに、その頬にはなぜか艶があり、目には妙な生気が漲っている。

「……なんか、若返ったように見えますよ」


-----


「だから、頼む、持って行ってくれ。もう、夢の中で死にたくは無い」

 院長は両手で本を突き出す。すがるような目だった。

 アゼルは、赤い革の表紙を見下ろした。

 読めもしない、重たい一冊。

 しばらく顔をしかめて考え、それから大きな溜め息と共に、肩を落として受け取った。

「……わかりましたよ。持っていけば、いいんでしょう」

 院長の顔がぱっとほころんだ。皺の一本一本が笑っている。

「おお、恩に着る」

 アゼルはやれやれと苦笑を浮かべた。

「五人がかりで夢に来られちゃ、院長もかないませんね」


 振り返れば、仲間たちが腹を抱えて笑っている。

 言いたかった礼は、結局半分も言えなかった。

 だが、生き生きと若返ったその顔を見たら、それでもう十分な気がした。

 アゼルの口元にも、いつのまにか笑みがこぼれていた。


 こうして、アゼルは旅に出た。

 誰にも読めぬ本を一冊、荷の底に抱えて。

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