断 ~ 忘れないでね ~
後に、アーナンドと呼ばれることになる、牛乳の恵みの土地。
その広場の、ちょうど真ん中で、石工が槌を振るっていた。
水を汲みに来た娘が、足を止める。牛を追う老人が、振り返る。子どもたちが、遠巻きに、彫る手元を覗き込む。
デヴィヤは杖を突いて、それを見ている。
自分が作った毒だった。その牙が、いま、自分の内側へ向いている。
他の石碑とは違い、デヴィヤだけが、街のど真ん中に据えようとしていた。
――女神様は、これまでも未来の道を照らしてくださった。この先も、きっと。
忘れてはいけない。
それだけの思いだった。
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ある日、ハシュが来た。
自分の石碑は、とうに彫り終えたという。暇を持て余した顔で、やたらと絡んでくる。賢者たちに構ってもらえなかった、としきりにこぼした。
膝には、いつのまにかリスが乗っている。ハンピから連れてきたらしい。
ハシュは、辺鄙なところに石碑を作らされたと、いつも悪態を付いた。でも、他の四人の学者は知っている。この悪態は、うわべだけのものであることを。
時折り、その笑顔がふっと消える。
杖を突いたデヴィヤの手を見ている。細くなった肩を見ている。
――こいつは、暇つぶしに来たんじゃない。
デヴィヤには分かっていた。ハシュは心配で来たのだ。それを悪態で隠しているだけだった。
ハシュに、ねっとり甘い菓子を、いきなり口へ詰め込まれた。ハシュの口にも、同じものが咥えられている。
舌に、甘さがしつこく残る。
平和になった世界。隣で、くだらない悪態をつくハシュ。
――まだ、消えたくない。
ふいに、そう思った。ずっとこの世界にいたい。こんな、なんでもない時間の真ん中に。
ハシュを見ていると、女神様を思い出す。
女神様も、そうだった。
退屈すると、くだらない悪戯を仕掛けてきた。人の履き物を隠して、澄ました顔で隣に座る。ばれると、堪えきれずに笑い転げた。神々しさなど、どこにもなかった。
学者たちと、菓子を分け合った時もある。その時の女神様の笑みが忘れられない。
いま口に残っているのと、同じ甘さだった。
――お菓子でこんなに喜ぶなんて、ちっとも神様らしくない。
そうからかうと、頬を膨らませた。
私が知る女神の大部分は、ただの人間だった。
その、ただの人間が。
自ら犠牲となって、散っていった。刀傷の賢者も、自ら暗黒竜となり自我を失った。
そして、その人を刺す毒を練った私も、同じように消えていく。
ひとつだけ。ひとつだけ願いが叶うなら。
この石碑に辿り着いたとき。少しでいい、思い出してほしい。私たちの事を。
その夜、デヴィヤは毒に負けた。
石碑の完成を見ることは、なかった。
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ハシュは、デヴィヤの墓を丘の上に建てた。
石碑がよく見える丘だった。
女神様がいつかここへ来たら、デヴィヤの墓とその碑が、いっしょに見えるように。
残りの石碑は、石工がそのまま彫り継いだ。間もなく、完成した。
最後に、ハシュが一枚の石板に文字を彫った。
何の魔法も、仕掛けもない。ただの文字だった。
――私たちの事、忘れないでね。
その石板を、石碑の前に埋めた。




