断 ~ 割った蒸しパン ~
後に、ゴアと呼ばれることになる土地。
マナスと二人の仲間は、その土地で小屋を借り、石を彫っていた。
腰の高さほどの、低い角柱。 四つの面に、びっしりと、守りの理を刻んでいく。風雨に負けぬよう、一画ずつ、深く。 半年、かかった。
最後の一画を彫り終えて、ノミを置く。
この街を見下ろし、海が見える風の強い丘があった。そこに、この守りの理を刻んだ石を運んだ。
運び上げるのに一日、据えるのに、また一日。 土を返し、突き固め、正面を海へ向けた。
潮風が、頬をひりつかせた。
丘の下の村から、女がひとり、登ってきた。 近くの墓に、野の花を供えて、祈りを捧げる。 長い時間だった。
マナスは、それに気を留めなかった。
石碑は、据えた。 だが、据えただけでは、ただの石だ。
千年。 その長さを、どう繋ぐのか。
紙は朽ちる。言葉は変わる。人は、忘れる。
ただ石碑を置いていくだけでいいのか、答えが見えなかった。
マナスが石碑へ続く坂道を整えていると、またその女が、丘を登って行った。
ある日、思い悩みながら、マナスは、表通りを歩いていた。
その女は、白い湯気の中にいた。 賑やかな市場の片隅、小さな屋台で、彼女は白い円い蒸しパンを商っていた。 この土地でサンナと呼ばれるそれは、米とココナッツの甘い香りを放ち、触れずとも温かさが伝わってくるようだった。
マナスは吸い寄せられるようにそれを買い、口に運んだ。ほのかな発酵の酸味と、優しい甘みが、心を溶かしていく。
ふと視線を上げると、女が静かに微笑んでいた。
澄んだ笑顔だった。
その目は、マナスの大柄な体格を恐れる風でもなく、ただ「美味しいですか」と語りかけているようだった。
それから、マナスは毎朝、その屋台に立った。
言葉は交わさない。大男が、ただ黙って蒸しパンを食べる。
だが、その数分間だけ、マナスの心は驚くほど穏やかになった。
「……名前は?」
女が問いかけてきたのは、十日目の朝だった。
「マナスだ」
その日の会話はそれだけだった。
次の日、女は問いかけてきた。
「あの丘で、何をしてるんですか?」
目線は合わせてなかったが、見られていた。
「石碑を立てた」
「何の石碑?」
「未来への道標、もう戦火が来ぬよう」
ある日、マナスが石碑の周りを整えていると。近くの墓に祈りを捧げた後に、女がサンナを持ってやってきた。
「これがその石碑?」
「ああ、心を守る石碑だ」
マナスは、自分が刻み込んだ理を見つめながら言った。
「だが、これを建てたからといって、悲しいことがなくなるわけじゃない。ただ、心が完全に壊されるのを防ぐ……それだけだ」
彼女はしばらくの間、指先で文字をなぞっていた。潮風が二人の間を吹き抜け、彼女の髪を揺らす。やがて、彼女はマナスを振り返り、また澄んだ笑顔を向けた。
「どんな、深い悲しみからでも、また立ち上がる力をくれるなら。きっと、この石碑は温かい」
その言葉に、マナスは息を呑んだ。
千年先へどう遺すか。その答えの輪郭が、彼女の笑顔の向こうに、初めて見えた気がした。人は、悲しみを抱えながらも、誰かの遺した温もりに支えられて生きていくのだ、と。
女は、サンナを割って、マナスに手渡した。
二人の心の距離は、その日から、確実に近づいていった。
役目を終えた仲間達は、それぞれの土地へ、あるいは記録の山へと発っていった。
だが、マナスは、発たなかった。
石碑は自分で守ると決めた。
そして、彼が守るべきものは、もうひとつ増えていた。 朝の光の中で、ふたりの左手の薬指には、お揃いの銀の指輪が静かに輝いていた。
それからも、あの丘で、二人は一つのサンナを割って食べた。
その光景は、何年も、波の音とともにずっと続いていった。




