断 ~ 甘さの記憶 ~
後にパトナと呼ばれることになる土地。大河のほとりに、その家はあった。
家の裏手、日除けの布を張っただけの仕事場で、ヴィシャンは今日も鏨を構え、槌を振るう。
乾いた金属音が、ひとつ。また、ひとつ。
目の前には、腰の高さほどの、低い角柱。四つの面に、文字が刻まれていく。
一打ごとに、深く。
風にも、雨にも、千年の歳月にも、削り取られぬように。
一字も、違えぬように。
彼が彫っていたのは、隠形と洞察の理。真実を隠し、必要とする者だけが見出せるよう組み上げられた、反転の道。
五人の学者が描いた計画は、すでに動き出している。
仲間たちは各地へ散った。ある者は歴史の表舞台へ。ある者は、誰にも知られぬ闇へ。
鏨を握り続けているのは、もう、ヴィシャンだけだった。
それでも、孤独ではなかった。
この家は、孫夫婦のものだ。
昼には温かな食事が並び、夕暮れには、幼い子どもが仕事場へ忍び込んでくる。小石を握って、こつ、こつ、と祖父の真似をする。
その何気ないひとときが、ヴィシャンにとって、何よりの安らぎだった。
ある日、ふと気づくと、子どもがすぐ隣に座っていた。
足音は、聞こえなかった。
「……いつの間に」
子どもは、きょとんとしている。
ヴィシャンは、彫りかけの面へ目をやった。
――もう、働き始めているのか。
口の端が、緩んだ。
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ある晩、卓にラドゥーが並んだ。祝い事のたびに作られる、丸い菓子だ。
小さな灯火を、四人で囲む。甘い香りが、部屋に満ちていく。
ひと口頬張って、ヴィシャンはゆっくりと目を閉じた。
「……この甘さを、これほど穏やかな心で味わえる時代が、本当に来たのだな」
その声には、長い戦乱を知る者だけが持つ、深い実感が滲んでいた。
「おじいちゃんたちが、命を懸けて切り拓いた道だよ」
「ええ。本当に」
妻が、子どもの頭を優しく撫でる。
青年は子どもを抱き寄せ、遠くを見るように言った。
「これからは、俺たちの番だ。この子らが二度と戦火に怯えることのないように――陽の当たらない場所から、支え続ける」
ヴィシャンは、何も言わなかった。
ただその言葉を、胸の奥深くへ、静かに刻み込んだ。
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最後の一打が、打たれた。
石碑は、完成した。
その数日後の朝。
ヴィシャンは寝床の中で、眠るように、冷たくなっていた。
石碑は、生前のヴィシャンの言葉通り、街外れの洞窟に運び込まれた。
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あの朝。
薄れゆく意識の果てに、よみがえっていたのは。
壮大な計画でも、石碑でも、栄光でもなかった。
小さな食卓。幼子の笑い声。穏やかに揺れる灯火。
そして、掌の温もりとともに頬張った、濃いラドゥーの甘さが、口に、優しく残った。
その記憶だけを胸に抱いて、ヴィシャンは永い眠りへと旅立っていった。




