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女神と、悪魔と ― ― 過去にある未来 ― ―  作者: 一ノ瀬 俊晶


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断 ~ 賢者の犠牲 ~

 賢者の一人が、羊皮紙を広げた。女神から授かった、白竜の術式。

「この竜は、白。我々と、同じ側だ」

「ならば」

 誰かが、静かに言った。

「裏返せば、いい」


 白の術式が、一行ずつ、黒へ、書き換えられていく。


-----


 その筆が、止まった。

 黒へ塗り替えられていく式の、その中心で。

「……ここを、このまま裏返すと」

 痩身の賢者の声が、掠れた。

「まずい、な」

 傍らの賢者が、覗き込み、息を呑んだ。頬から顎へ、古い刀傷の走る男だった。


 そこは、白竜の自我を司る式だった。

 心の在り処。竜を竜たらしめる、たった一つの核。

「反転させれば、この竜は我らに牙を剥く。悪魔と同じものに成り果てる」

 痩身の賢者が、低く言った。

「……消すか」

 誰かが、呟いた。

「消せば、ただの抜け殻だ」

 深藍のフードの学者が、静かに首を振った。皺の奥の眼は、閉じられている。

「意志を持たぬ竜に、世界を満たす、あの黒を、喰らい尽くすことはできぬ。飛ぶことすら、あるまい」


 沈黙が、落ちた。

 白の心を宿せば、竜は黒を喰らえない。黒の心を宿せば、竜は人に牙を剥く。

 そのどちらでもない心。黒を喰らい、なお、人の側に留まる心が――要る。


「なら、答えは一つだ」

 刀傷の賢者が、顔を上げた。落ち窪んだ両の眼が、静かに据わっていた。

「竜の心の、その空いた席へ。私の自我を組み込む」


「……正気か」

 年若い賢者が、呻いた。

「役目を終えれば、その自我も――竜と共に消える。二度と戻らぬ。名も記憶も。その者が、そこに在ったことすら」

「ああ」

 刀傷の賢者は頷いた。まるで、とうに覚悟していたように。

「だから、私が行く」


「待て――」

 年若い賢者が、腰を浮かせた。

「これは、私の役目だ」

 刀傷の賢者は遮った。その声に、迷いはなかった。

「女神様は、我らに言った。私がいなくなっても、混迷は続く。その混迷を、終わらせてほしい、と。――あれは、我ら全員への言葉だ。だが、誰かがその身で負わねば、ただの祈りで終わる」


 刀傷の賢者は、黒く染まった術式に、そっと手を置いた。刀傷の走る頬が、燭台の火に、赤く照らされる。

「自我を組み込むなら、より黒い者がいい。より深く、悪魔を斬りつけた者が。――この中で、最も多く、あれらと対峙したのは、私だ。この身には、もう、黒が染みついている。そうだろう、学者さん」

 学者は、暫し目を閉じ、それから口を開いた。

「……ここでは、計れぬ。だが、肌で、感じる。――ああ。貴殿が、最も黒い」


「すまない」

 痩身の賢者は、ただ、一言、そう言った。


 誰も、顔を、上げられなかった。

 彼を止める言葉も、彼を送る言葉も、持ち合わせてはいなかった。


-----


 その夜。


 刀傷の賢者は、人であることを捨てた。

 背から、黒い翼が、裂けるように伸びる。白であったものが、黒く染まりきり、天を衝く巨大な竜へと変わっていく。

 黒く染まりきる、その寸前まで人であった瞳だけが、ほんの一瞬、こちらを見た気がした。刀傷は、もう、闇に溶けていた。

 もう、己の名すら、思い出せぬのだろう。

 それでも、彼は笑っていた。そんな気がした。


 暗黒竜が、羽ばたいた。

 黒い空へ。世界を覆う、その黒を喰らい尽くすために。

 ――たった一人の、自我を燃やして。

 女神様の遺言を、その身に負って。

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