第三十話 ―― 一つの悪魔 ――
「ガルド……ヴァル……」
二人の亡骸へ、目を向けた。応えはない。膝から力が抜け、リリアナは地面に吸い込まれるように、へたり込んだ。爪の先が、乾いた岩を掻いた。
ごめんなさい。
声にはならなかった。両親も、ガルドの腕に抱かれていた人も、ヴァルの家族も。自分のいた場所から、ひとつずつ、欠けていった。その理由を、もう知っている。
膝に、力を込めた。
リリアナは、立ち上がった。
「アゼル」
それきり、続かなかった。言いたいことは山ほどあったのに、どれも、今ここで言う言葉ではない気がした。
リリアナは、白竜に、両手を差し出した。
応えるように、白竜の巨体が淡くほどけ、光の粒となって、彼女の掌の上へ集まっていく。やがてそれは、両手に収まるほどの、小さな光の塊になった。
「希望は、あなた。アゼル……頼んだよ」
その光の塊は、彼女の手を離れ、まっすぐにアゼルへ向かい、胸の奥へ、溶けるように沈んだ。
「ごめんなさい…………さようなら」
淡い光が、リリアナ自身を、足元から包み始める。
その輪郭が、夕暮れの薄布のように、徐々に透けていく。
「リリアナさん!? 何を……っ」
アゼルが、叫んだ。
差し出された手は、もう光に届かない。リリアナの瞳には、ひとつの曇りも、なかった。
かつて、女神が自らを封じるのに使った、その術式だった。
白と黒に分かれる前の、ひとつの力。その力を、この大地に集中させる。それが、レンズ。それが、女神。
悪魔が喰らう黒も、人々が編んだ白も、元は、私が集めた力。そして、私への信仰が、レンズを強くする。
だから、このレンズを、内側から壊す。
悪魔のもとへ流れ込む力を、大きく削げる。少なくとも、千年前のように黒が満ちることは、もう、ない。
喉の奥が、ひどく渇いていた。それでも、指先は震えていなかった。
――それで、いい。
――それで、みんなを、守れる。
台地の隅で、デミウルゴスが、最後の一画を、引いた。
穴が、塞がった。術式が、完成する。
「させると、思うか」
その指先から、歪んだ黒い光が、糸のように、リリアナへ伸びていく。
「意志だけ、貰い受ける。レンズは、そのまま。――これで、完成だ」
リリアナ自身の封印と、悪魔の封印が――正面から、ぶつかった。
光が、せめぎ合う。
白い光と、黒い光が、互いの根を喰い合うように絡み、台地の上で渦を巻いた。空気が、軋んだ。
拮抗した。
リリアナの封印は、レンズを壊しきれない。デミウルゴスの封印も、女神の意志を封じきれない。互いが互いの完成を阻んで、どちらも、半ばで止まった。
やがて二つの光は、もつれ合ったまま、ふっと宙に消えた。
そこには、透明に輝く、リリアナの姿があった。
「……リリアナ、さん?」
呼びかけに、透明な姿は、応えない。
アゼルは、立ち尽くしていた。手を伸ばせば届く距離に、さっきまで確かに息をしていた人がいた。なのに、その輪郭は光に溶けて、もう温度がない。
ガルドも、ヴァルも、台地の岩肌に倒れたまま、動かない。
一人だった。力を失い、リリアナまで、失って。
乾いた風が、頬を撫でていく。
両手に菓子を抱える、ガルド。
不意に褒められ照れる、ヴァル。
石碑にかじりついた、リリアナ。
はにかむような、その横顔。
もう、何もない。
立ち上がる理由が、もう、どこにもなかった。
アゼルの中で、何かが、ぴしりと、音を立てた。
いつかの感触だった。
冷たいものが、砂のこぼれるように、彼の内側を、蝕んでいく。
その時。
声が、聞こえた。
耳元で。彼女の、声が。
『泣かないで。前を向くのよ』
『あなたなら、できる』
アゼルの中で、何かが、弾けた。
胸の奥が、熱い。
その熱が、体の芯から、噴き上がった。
白竜の力。そして、身体に残った、悪魔の力。
その、両方が。
聖典と共に懐に収めていた蘇生の魔導書が、その熱に応えるように、眩い光を放ち始めた。
――死者は帰らず。未来へ託す。
乾いた地下で千年、誰かを待っていた言葉。
その未来は、今。
魔導書に、手をかざす。
『そう』
眩い光が、ガルドへ。そして、ヴァルへ、降り注いでいく。
ガルドの、砕けた体が、光の中で繋ぎ合わされていく。
ヴァルの、崩れた体が、ほどけた糸を手繰るように、戻っていく。
光が、引いた。
二つの体が、台地に横たわっている。
動かない。
まだ、何も。
『ガルド、起きて』
その指が、ぴくり、と動いた。
止まっていた胸が、大きく、上下する。
ガルドが、息を、吸った。生き返った者の、最初の一息を。深く、長く。
目が、開いた。
「……俺は」
『ヴァル、起きて』
ヴァルの睫毛が、震える。
ふっと、目が、開いた。
戻ってきた。二人とも、こちら側へ。
「いっ、一体、なにが、起きている……封印が、半分だと」
ヴォルガスが、呻いた。
悪魔たちは、己の内から力が抜けていくのを感じていた。
「オクラス」
モルボスは、それだけ言った。
「力が……落ちて、いく」
オクラスが、視たままを、口にする。自らの、衰えすらも。
「ガルドさん! あいつらの、支配が、来ます!」
アゼルが、叫んだ。
ヴォルガスの眼が、起き上がったばかりの二人を捉えようとする。あの、体を内側から操る支配が。
だが。ガルドの盾の内側で、何かが応えた。
リリアナが与えた、心を守る魔導書。盾に忍ばせていた、その一冊が――静かに、輝き出した。
『分けてあげて。みんなに』
リリアナの、囁き。
ガルドが、手を広げた。
淡い光が、掌から溢れ、ヴァルへ、アゼルへ、波のように広がっていく。
心を守る、結界。
ヴォルガスの支配が――触れる前に、弾かれた。
「効か、ぬ、だと」
ヴォルガスの声が、裏返る。
悪魔たちに、更なる動揺が広がる。
オクラスの眼が、三人を捉えた。
だが、三人の足は、止まらなかった。
眼が縫うのは、心。
その心は、淡い光の内側にあった。
支配も、硬直も、届かない。
リリアナという力のレンズが曇り、四柱は見る間に弱っていく。
もう、止まるものは、なかった。
ガルドの剣が、ヴォルガスを、断つ。
ヴァルの炎が、オクラスの、大きな眼を、貫く。
アゼルの、光と闇が、モルボスを、灼く。
力を抜かれた三柱が、抗う術もなく、崩れていく。
「おのれ……っ」
ヴォルガスが、吼えた。誇りを傷つけられた、獣の声で。
「……ならば、一つに、なる」
モルボスの声は、静かだった。怒りも、焦りも、ない。ただ、そうすると、決めた。それだけ。
崩れかけた三柱と、デミウルゴスが、互いの輪郭を、失っていく。
黒い塊が、脈打つように膨れ上がり、ゆっくりと形を成していった。
王冠を思わせる角が、ねじれながらそびえる。
胸の中央で、巨大な一つ眼が、瞬きもせずに見開かれた。
肌は爛れて崩れ落ち、それでいて輪郭は、見るたびに揺らいで定まらない。
四つの悪意が、混ざり合い、一柱の悪魔になった。
禍々しい力が、足元の岩を通して、台地そのものを震わせる。
巨大な影が、四人を――いや、三人を、見下ろした。
絶望的な、力だった。




