第二十九話 ―― 悪魔たち ――
「……っ、ぎぃッ……!」
ヴァルが、悲鳴を押し殺す。
「ヴァル! 今、治す!」
アゼルが、駆け寄り、手をかざした。
いつもの、桁外れの治癒。それが、あれば。
だが――光は、灯らなかった。
「……え?」
アゼルが、自分の手を見つめる。
もう一度、かざす。何も、起きない。
「どうして……僕の力が……出ない……っ」
あれほど、当たり前だった、その力は。
修道院で覚えた、小さな灯さえ。
跡形もなく、消えていた。
消えたのは、温かい光だった。
その奥に、冷たい何かが、澱のように、残っていた。
「あった。……あった、ここに。女神の、封印の、痕跡が」
グロストを呑み込んだ、青白い器。歪曲のデミウルゴスが、嬉々として叫んだ。
「これだ。これで、穴が、塞がる。私の――誰にも創れぬ、ものが、完成する」
顔を、上げる。
「殺すな。女神を、殺すな。封印が成るまで、ただ、食い止めろ。それ以外は、どうでも、いい」
作品のこと以外、何一つ、興味のない声だった。
その時。
青白い器から、真球の水晶が生まれた。いつもの欠片より、ひと回り、大きい。
宙に浮いた水晶。
それが、リリアナの目の前で、
――弾けた。
いつの間にか、胸元のペンダントを握っていた。
記憶が、洪水のように押し寄せた。
――女神の、記憶が。
「なんとなく、気づいていた。それでも、気づかない振りをしていた――そう、私が……女神」
過去と現在の境界線が、ゆらいでいた。
ガルドは、リリアナを見つめた。
瓦礫になった村。名前も思い出せずに座り込んでいた少女。
あの日も、欠片が弾けて――少女は、戻ってきた。
――何であろうと関係ない。お前は、リリアナだ。
「行くぞ! リリアナ!」
ヴァルも、頷いた。
リリアナは、真っ直ぐに、悪魔を見据えた。
女神の知識が、よみがえる。
両手を、天にかざした。
リリアナの足元に、白く、眩い、召喚陣が浮かび上がる。
呼びかける。
光の中から、それは、来た。
白い竜だった。
台地を覆うほどの、大きな体。鱗の一枚一枚が、淡く発光している。闇を祓う、白。生命そのものの輝き。
白竜が、ゆっくりと、翼を広げた。
その光が、降り注ぐ。
悪魔の力を断つはずだった、黒い炎の剣が――谷の底で、まだ燃えていた。降りそそぐ白さえ、その輪郭で吸い込んで、光を、一切、返さない。
喰らう黒と、与える白。
「ヴァル!」
リリアナは、叫んだ。
白竜の光が、ヴァルの、失われた右手に、集まる。
光が、形を成していく。
骨が。肉が。生まれ直すように。
ヴァルの右手が、戻った。
「……これは」
ヴァルが、己の右手を見つめた。
光は、ガルドにも降り注いだ。
体の奥から、力が満ちてくる。これまで、感じたことのない、熱。
白竜の加護。治し、そして、強める力。
「……いいな、これは」
ガルドが、剣を握り直した。
白竜が、頭をもたげた。
喉の奥に、白い光が収束する。
放たれた。
光のブレスが、ヴォルガスを呑み込んだ。
悪魔の巨体が、初めて、たたらを踏む。
その隙を、二人は逃さなかった。
ガルドが地を蹴る。強化された一歩は、これまでの比ではない。剣が、モルボスの爛れた腕を斬り裂いた。
ヴァルが続く。気配を消し、ヴォルガスの背後へ。炎の短剣が、薄い翼を薙ぐ。
悪魔が、後退する。
白竜の光を、背に。三つの力が、確かに、悪魔を追い詰めていた。
「行ける……!」
リリアナの胸に、希望が灯った。
白竜が、再びブレスを溜める。今度こそ。
その時だった。
台地の隅で、術式を描いていたデミウルゴスが、ちらりと振り返った。
「危ない、危ない」
気だるげに、片手を上げる。
「邪魔を、しないでくれ。今、手が、離せないんだ」
白竜の、放たれたブレスが――歪んだ。
まっすぐ進んでいた白い光が、空中でねじ曲がる。渦を巻き、色を失い、霧のように散った。
悪魔には、届かなかった。
それどころか。
散った光を、ヴォルガスが吸い込んだ。悪魔の角が、わずかに輝きを増す。
「ぐ……」
与えるそばから、奪われていく。
リリアナの白竜が、悪魔を、肥やしていた。
ヴォルガスの眼が、すっと細くなる。
「児戯だ」
ヴァルの振るった炎が――あらぬ方へ逸れた。
自分の腕が、自分の意志と関係なく動く。
「な……っ」
体が、言うことを聞かない。
支配の力。
リリアナの指に、黒い雷が集まった。
オクラスの瞬かぬ眼が、それを視た。
眼が、リリアナを捉える。
体が、硬直した。指、一本、動かせない。
集まった雷が、指先で、ほどけて散った。
――殺すな。食い止めろ。
眼は、命じられた通り、女神だけを、視続けていた。
動けないヴァルに、モルボスの爛れた手が伸びた。
「ヴァル!」
リリアナは、声しか、届けられなかった。
触れられた端から、ヴァルの輪郭が、崩れていく。
戻ったばかりの、右手も。
ヴァルは、声も上げなかった。
ただ、崩れ落ちた。
ガルドが、吼えた。
モルボスへ、斬りかかる。
ヴォルガスが、その動きを支配しようとする。
だが――ガルドの腕は、逸れなかった。
「止まれ」
ヴォルガスが、命じた。支配の力が、放たれる。
だが、ガルドの腕は、止まらない。
「止まれ、と言っている」
声が、跳ね上がった。
「我が言葉が……届かぬ、だと」
効かぬのではない。届かぬ。この男にだけ。それが、この誇り高い悪魔には、許せなかった。
ガルドは、答えなかった。ただ、剣を振るい続けた。ヴァルの亡骸を、リリアナを、アゼルを、背に庇って。
力を失ったアゼルが庇うのは、女神ではなく、リリアナだった。
武器も、魔法も、ない。ただの、体ひとつで。
支配は、効かない。だが――数が、違う。力が、違う。
オクラスの眼は、リリアナを、離さない。
モルボスが、ヴォルガスが、ガルドへ迫る。
それでも、ガルドは、退かなかった。
最後に、動いたのは、ヴォルガスだった。
支配の効かぬ男には。
ただ力で。
振るわれた腕が、ガルドを捉えた。
ガルドの体が宙を舞い、岩壁に叩きつけられた。
それきり、動かなかった。
オクラスの眼が、リリアナから、離れた。
視るべき抵抗は、もう、ない。
硬直が、解けた。
それでも――リリアナは、動けなかった。
白竜が、すぐに、光を注ぐ。
だが――その光は、二人を包んでも、何も起こさなかった。
治す力は、ある。
でも、死んだものを、生き返らせる力は――白竜にも、なかった。




