第二十八話 ―― 解放 ――
その場所は、北の果てにあった。
切り立った岩山の、奥。
深い谷を見下ろす、岩の台地だった。草木はなく、黒い岩肌が、剥き出しになっている。足元の縁から、底の見えない谷が、口を開けていた。
その、はるか向こうに。
雪を抱いた霊峰が、空を衝くように、そびえていた。
空気が、重い。
これほどの高みだ。薄く、澄んでいるはずの空気が。なのに、肺の底に、澱む。
――高さの、せいではない。
何か途方もなく古いものが、ここに、眠っている。
リリアナには、分かっていた。
ここ。
黒い岩の台地に、白い塊が、ひとつ。
平たい一枚石が、ぽつりと置かれている。風雨に角を舐め取られ、文字も紋様も、消えかけている。その白さが、古い骨を思わせた。
かろうじて残った、左右へ薄く伸びる、対の弧。
リリアナの指が、それをなぞる。芯から抜けていくような、冷たさ。
指が、止まった。
――この形を、知っている。
魔物の、額。砕けるたびに、欠片を零した、あの紋様。あれと、同じだ。
祭壇は、何も語らない。ただ、長い間、置かれていた。
ここに、蓋をするように。
アゼルが、辺りを見回した。
「ここですか? 魔物がいるのは? 動物の気配すらありませんね」
アゼルだけ、知らない。
リリアナは、答えなかった。
「ガルド、この祭壇をよけて」
ガルドが祭壇をずらすと、地面に、悲しげな青白い光の円が、滲むように浮かび上がった。
「いい?」
リリアナは、三人の右手を一つに集めた。アゼル、ガルド、ヴァル、そしてその上に、リリアナ。
肌と、肌が、触れる。
それを確かめるように、リリアナは一度だけ、ぎゅっと力を込めた。
アゼルだけが、これから何が行われるのか、分からずにいた。思考は、霧の中にいた。
リリアナは、ヴァルに目で合図を送った。
黒い柄から、黒い炎が上がった。熊と対峙した時より、大きく、深い、黒。
ヴァルは、アゼルに斬りかかった。
「な、な、」
アゼルの理解が、追いつかない。
漆黒の炎が、アゼルに纏わりつく。
そして、アゼルの体から、黒い靄が、滲み出てくる。
拷問の悪魔、グロスト。
ずっと、アゼルの中に、隠れていたもの。
「ぐ、ああ……っ」
リリアナが、両手で、封印の術式を、描く。
淡い光が、グロストと、青白い器を繋ぐ。
「謀った、な」
声が、低い。
「我を……この我を、封じるつもりか」
黒い気が、ぶわりと膨れ上がった。
「ふざけるな」
その気を叩きつけるように、紋様が、描かれていく。
「貴様らだけ、無事で済むと思うな……!」
仲間を呼ぶ、召喚陣だった。
同時に、オクラスの眼が、こちらに向けられた。
悪魔たちは、油断しきっていた。力はすでに満ち、その関心は、最後の術式の完成――ただ一点に注がれていたからだ。
『女神が、悪魔に力を与えながら、女神を封印する方法』――それを、創り出すことに。
器の青白い光が、視界を埋めた。
そして、消えた。
グロストの封印は、成った。
アゼルが、膝から、崩れ落ちる。
「アゼル!」
リリアナは、駆け寄った。
アゼルは、荒い息を、ついていた。だが、生きている。目の焦点が、戻ってくる。
「リリアナ、さん……? 僕、いったい……」
何も、覚えていないようだった。
自分の中に、何がいたのかも。今、何が、引き剥がされたのかも。
それでいい。
リリアナは、ほっと、息をついた。
終わった。アゼルは、助かった。
その時だった。
グロストの描いた召喚陣が、どす黒いオーラに包まれた。
「やってくれたな」
召喚陣が、歪む。
そして――現れた。
四つの、影。
これまで、深淵の中に、白いローブで、隠れていたもの。
今、そのローブを、脱ぎ捨てて。
一柱は、大柄だった。頭から角が王冠のように広がっている。見下ろす眼に、逆らうことを許さない重さがあった。支配の、ヴォルガス。
従わせる。それが、この悪魔の知る、唯一の、繋がり方だった。
一柱は、輪郭がゆらいでいた。見ようとすると、姿が歪む。角も翼もねじれて定まらない。歪曲の、デミウルゴス。
完成に焦がれる者の、その輪郭だけが、永遠に未完成だった。
一柱は、顔のほとんどが眼だった。大きな一つの眼。瞬きもせず、すべてを見ている。眼の、オクラス。
すべてを視る。だが、踏み込むことはできなかった。
一柱は、痩せこけていた。爛れた黒い肌。まとう気配が、触れるものを腐らせるようだった。禍いの、モルボス。
与えられるものは、禍いだけ。祈られず、畏怖の視線だけが集まった。
四柱の、悪魔。
黒い肌。角。畳まれた、薄い翼。静かで――それゆえに、おぞましかった。
顕現が、終わった。
その眼は、十八年間、深淵の底から、視てきた。今、初めて、遮るもののない己の眼で、視る。
娘。僧侶。聖騎士。
一人。二人。三人。
視てきた通りだ。すべて、報告した通り――
眼が、止まった。
四人目が、いた。
黒い炎を、提げて。
瞬きのできない眼が、逸らすこともできない眼が、ただ視続けるしかない眼が――視てはならぬものを、視た。
「…………四人」
掠れた声が、落ちた。
「四人、いる」
見えた通りを、述べる。それが、この悪魔だった。だから、今も、述べた。己を、突き崩す数を。
四人目が、いる気がしていた。
気のせいでは、なかった。
気のせいに、したのだ。この、眼が。
最初から、いたのだ。視ていた、すべての場面に。
ヴァルは、目を逸らさなかった。
父は、応えなかった。
兄は、振り返らなかった。
母の目には、映らなくなった。
視られずに生きてきた、その年月のすべてで。
すべてを視るはずの眼を、見返していた。
「――断て」
禍いのモルボスの声は、短かった。
「……その黒を、知っている」
オクラスの声が、揺れていた。
「け、賢者どもの、黒き竜……! 我らの力を……う、奪うもの」
視た通りを、述べた。
それは報告ではなく、悲鳴だった。
その悲鳴に――ヴァルの手の中で、黒い炎が、揺れた。
揺らぎの奥から、光景が、流れ込んでくる。
◇
夜だった。千年前の。
空が、黒く煮えていた。
砦の内に、十人の賢者。削げた頬。尽きぬ、魔物の波。
そこへ、学者が一人、駆け込んできた。泥と、血と、羊皮紙の束を抱えて。
「――ふたつの力が、観測された」
「一つは、白。我々と、女神様が、消費する力」
「一つは、黒。悪魔と、魔物が、喰らう力」
「元は、ひとつ。天から大地へ、降り注ぐ、ひとつの力だ」
学者の指が、震えながら、図を叩く。
「白を使えば、黒があふれる。黒を使えば、白があふれる……天秤だ。我々が祈るほど、術を編むほど、奴らの糧は、増えていた」
戦うことが、そのまま、敵を肥やしていた。
「この戦況だと、魔物どもが黒を喰らい尽くす頃には、我々も生きてはおるまい」
賢者の一人が、羊皮紙を広げた。女神から授かった、白竜の術式。
「この竜は、白。我々と、同じ側だ」
「ならば」
誰かが、静かに言った。
「裏返せば、いい」
白の術式が、一行ずつ、黒へ、書き換えられていく。
守るためではなく。祓うためでもなく。
ただ、喰らうためだけの竜を。
竜は、夜の底から、生まれた。
光のない翼が、戦場を渡る。通った跡で、魔物が崩れ、悪魔の炎が、痩せていく。
竜は、黒を、喰らい続けた。空の黒が薄れ、千年ぶりの星が、戻るまで。
南の海の果てで、役目を終えた竜は、みずから縮み、骨の柄を、ひとつ、遺した。
黒い炎は、もう、灯っていない。
――預ける者を、待つように。
◇
光景が、消えた。
瞬き、ひとつぶんの、千年だった。
その、次の瞬間。
何かが、奔った。
ヴァルの右手が、黒い炎の剣ごと――谷底へ、落ちていった。




