第二十六話 ―― 祭りのあと ――
ムンバイを出て、北へ。一行は、アーナンドに向かっていた。
岩陰に火を焚き、夜営をしていた。
ガルドはいびきをかいて眠り、アゼルも毛布にくるまっていた。
ヴァルだけが、火の傍で、短剣を抜いていた。
南で、思い知ったことがある。
力は、込めるものじゃない。預けるものだ。
父の言葉が、いまも、手のひらに残っている。
「リリアナ」
まだ起きていた彼女が、火を回り込んで、隣に座った。
「やってみる。今度は、握らない」
リリアナの指から、黒い火花が、刃へ移る。
ヴァルは、握り込まなかった。留めようとも、しなかった。
ただ、刃に、預けた。この光を、信じて。
すると。
黒い雷が、刀身を、這い上がった。ぱちぱちと、輪郭を灼きながら。
今までで、いちばん、長く。
「……灯った」
リリアナが、息を呑む。
だが、ひと呼吸。
雷は、ふっと、ほどけて消えた。
「今度は、雷を少し強くしてみるね」
二人の練習は、続いた。
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翌朝、一行は、また歩き出した。
潮の匂いは、もう遠い。空気は、からりと乾いていた。土地は、平野へと変わっていった。見渡す限りの畑。麦が、黄金色に実っている。牧草地では、牛が、のんびりと草を食んでいた。
アーナンド。牛乳の恵みで知られる、農村の町だった。
その町に着いた時、祭りが始まろうとしていた。
女神と、実りに感謝する祭りだという。
広場には、すでに人が集まり始めていた。家々の前の地面には、色とりどりの粉で、模様が描かれている。花。渦。鳥。軒先には、サトウキビが束ねて立てかけられ、無数の小さな灯火が、家々の縁に並べられていく。
日が落ちると、それらが、いっせいに灯った。
広場が、橙色の光に、包まれる。
太鼓が、打ち鳴らされた。
人々が、輪になって、踊り始める。色鮮やかな衣装が、灯火の中で、ひるがえる。手を打ち、足を踏み、ぐるりと回る。歌声が、夜気に響いた。
女神を、讃える歌だという。
子どもが、駆け回る。年寄りが、手拍子を打つ。誰もが、笑っていた。
「すごい……!」
リリアナの目が、灯火を映して、輝いた。
四人は、その渦に、巻き込まれていった。
広場の一角に、ずらりと、料理が並べられていた。
大きな金属の皿。その上に、いくつもの小鉢。豆の煮込み。香辛料で和えた野菜。揚げたての、ふくらんだパン。とろりとしたヨーグルト。漬物。そして、甘いもの。牛の乳を、じっくり煮詰めた、乳菓子。
この土地の、ありったけの恵みが、一皿に、乗っていた。
「旅の方も、食べていきな! 今日は、無礼講さ!」
村の女が、四人にも、皿を押しつけた。
ガルドが、乳菓子に、手を伸ばした。
ひとつ、口に入れる。その顔が、ほころんだ。今夜は、もう、迷いがなかった。
「ガルド、また甘いの」
「……うまいんだから、仕方ない」
リリアナが、笑う。
ヴァルは、揚げたてのパンを、豆の煮込みに浸して、黙々と食べていた。だが、その肩から、いつもの強張りが、消えている。
アゼルは、もう、両手に皿を持って、目を白黒させていた。
「どれから食べたら、いいか、分かんないですよ、これ!」
「全部食べる気でしょ、あなた」
「当たり前じゃないですか!」
広場の、はしっこに、小さな屋台が出ていた。
揚げたての菓子が、蜜の香りを、湯気ごと立てている。
皿を空にしたガルドが、いつのまにか、そこにいた。
一つ、買う。
一口で、消えた。
無言で、列に、並び直す。
「兄さん、最初から、ふたつ買いな」
屋台の親父が、笑って、二つ目を包んだ。
「一つじゃ、足りない顔してたよ」
ガルドは、何も言わずに、受け取った。
リリアナは、堪えた。
堪えきれなかった。
四人は、灯火の中で、食べて、笑った。
これまでの旅で、口にした、あらゆる味。それが、今夜、この一皿に、集まっているようだった。
太鼓が鳴る。歌が響く。灯が揺れる。
夜は、いつまでも、続くように、思えた。
リリアナは、その真ん中で、ふと、手を止めた。
三人を、見た。
甘いものに目を細めるガルド。パンを頬張るヴァル。皿を抱えて笑うアゼル。
みんな、笑っている。
この、何でもない、賑やかな夜。
胸の奥が、しん、と、静かになった。
リリアナは、もう一度、皿の料理に、手を伸ばした。
その味を、忘れないように。
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祭りは、ゆっくりと、終わっていった。
太鼓が、やんだ。歌が、途絶えた。人々は、ひとり、またひとりと、家へ帰っていく。灯火が、ひとつずつ、消されていった。
あれほどの喧騒が、嘘のようだった。
リリアナは、ひとり、広場に残っていた。
ふと、広場の中心に、目が留まった。
祭りの間、人々が、囲んで、手を合わせていた、そこに。
石碑が、立っていた。
腰の高さほどの、低い角柱。これまで、幾度も見てきた、あの姿。
だが、何もかもが、違った。
今までの石碑は、いつも、隠されていた。洞窟の奥。地下。けもの道の先。誰にも知られず、ひっそりと。
なのに、これは、祭りの真ん中で、崇められていた。
リリアナは、引き寄せられるように、近づいた。
花と、小さな灯に、囲まれた石碑。
指で、古代文字を、なぞる。
「女神……」
そう冠された石碑だった。
一行、一行、その術式を追っていく。
不思議な術式だった。これまで解いた、どの石碑とも違う。結界でも、攻撃でも、防御でもない。もっと根源的な――存在のありようそのものに、触れる、何か。
リリアナの眉が、寄った。
「……これ、何の魔法なんだろう」
仕組みは分かる。流れも追える。でも、何のために使うのか。それが、まるで分からない。
何かを変質させる、そういう、魔法だった。
ふと、石碑の根元に、目が落ちた。
術式とは、別だった。びっしりと刻まれた式の、その下に。短い、数行の言葉が、添えられている。式ではない。誰かが遺した、言葉だった。
しゃがみ込んで、苔を払う。一行ずつ、指で、なぞっていく。
――我ら五人の学者は、女神様より、未来を託された。
――五つの石碑として、その約束を果たそう。
――賢者たちが悪魔と対峙した、その知識をもとに、
――人へ遺す未来を、四人が一基ずつ記した。
“五人の学者には、未来を”
お伽噺だと思っていた。面白い、ただの古い物語だと。
千年前に遺された、未来。
それが今、目の前で、息をしていた。
ヴァルの祖先の、洞窟の石碑。気配を消し、弱点を暴く――洞察。
乾いた街の、地下の石碑。死者を浄め、甦らせる――蘇生。
ガルドの家系の、丘の石碑。外の手から守る――心の守り。
あの悪戯好きの、石碑。手を抜いたふりをして、未来に念話を託した――あの、リスの声。
そして、最後の言葉。
――そして、五人目の私は、自らを犠牲となさった女神様――あなたの未来を救うために、この石碑を捧げる。
写し終えると、最後の灯が一つ、ふっと、消えた。
この人は、女神に、どんな未来を遺したかったのだろう。




