第二十五話 ―― 前へ前へ ――
ムンバイは、大きな街だった。
海に面した、商いの街。石造りの建物が、何層にも積み重なり、人と荷車と潮の匂いとが、絶え間なく行き交っていた。
ガルドたちは、この街でヴァルを待っていた。
欠片の在り処は、北の森を示していた。しかし、欠片を集める理由は、なくなっていた。
その夜、リリアナは、眠れなかった。
宿の窓から、ムンバイの灯りが見えた。潮騒に、遠い人の声が混じる。
部屋には、寝台が、二つ。
もう一つは、空のままだった。ヴァルがいれば、そこで眠っているはずの寝台。
壁の向こうから、かすかに、アゼルの寝言が聞こえた気がした。何も知らない、暢気な声で。
リリアナは、毛布の中で、膝を抱えた。
――その少女の名は、リシケシ村の、リリアナ。
悪魔の声が、まだ、耳に残っている。
私の名前。私の村。私の旅。ぜんぶ、知られていた。ぜんぶ、掌の上だった。
怖い、と思った。
今さら、はっきりと、怖かった。
逃げたい、とも思った。
計画も、欠片も、ぜんぶ放り出して。四人で、ただ、旅を続けたい。知らない街で、知らない料理を食べて、笑って。どこにも、着かなくていい。ずっと、道の上にいたい。
そう思ってから、空の寝台が、目に入った。
ヴァルは今ごろ、一人で、南の果てにいる。
……ごめん。
毛布を、目の深さまで、引き上げた。
それに。
考えまいとしているのに、夜は、いつも同じ場所へ、指を伸ばしてくる。
おかしい、ということ。本当は、ずっと、分かっている。
読めるはずのない石碑が、読める。習ってもいない術式が、勝手に湧く。力が、際限なく、伸びていく。
まるで、誰かのものを、借りているみたいに。
ふいに、父ガレンの声が、よみがえった。
幼い日。剣を研ぐ手を止めて、話してくれた。私が、どこで生まれたのかを。
――そこに、お前がいた。赤ん坊が、たった一人。魔物に囲まれて。なのに、傷ひとつ、なかった。
あの時は、ただの、不思議な昔話だった。
今は、違う。
どうして。
私は――
そこで、やめた。
いつも、そこで、やめる。
その先を考えたら、もう、この毛布の温かさに、戻ってこられない気がした。
寝返りを、打つ。
ペンダントの蝶を、握る。
明日も、普通の顔をしよう。アゼルの軽口に、笑おう。
それだけを、決めて。
リリアナは、目を、閉じた。
眠れたのは、明け方だった。
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禍いのモルボスが、口を開いた。
「力の満ちが、遅い。オクラス。何が、起きている」
「マイソールを出て以降、三人の歩みが、落ちている」
オクラスが、答えた。見えるものを、そのまま。
「だが、不審な動きは、ない」
歪曲のデミウルゴスが、図から顔も上げず、続けた。
「封印には、もう少し、力がいる。あと少しで、いいんだ」
「術式は」
モルボスが、問う。
「まだだ。穴が、一つ。たった一つ、塞がらない。……美しくない。これでは、完成とは、言えん」
耳の刺繍が、苛立たしげに、震えた。
あと、一つ。それさえ埋まれば、図は完成する。
女神の力は、永遠に、こちらのものになる。
たった、一つ。
「では、こちらから、欠片を動かす」
モルボスが、決めた。
支配、続いて歪曲が、深淵から消えた。
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北の森に、ふたつの白いローブが、降り立った。
木々が、ざわめく。
その奥に、それは、いた。額に紋様を宿した、巨大な獣。森の王と、人が呼ぶもの。
獣が、牙を剥いた。低く、唸る。縄張りを侵した、ものへ。
ヴォルガスは、歩みを、止めない。
ただ、片手を、差し伸べる。
「伏せろ」
唸りが、途切れた。
巨体が、ぐらりと傾ぎ、前脚が、地に折れる。
森の王が、ローブの前に、頭を垂れた。
月のない、その目から、意志の光が、すうっと、失せていく。
「お前を美しくしてやろう」
デミウルゴスが、両拳を、森の王に向ける。
目は赤く濁り、狂気に染まる。身体から、獣としての生気が抜けていった。
「ゆけ。南の街だ。娘の、いる方へ」
獣が、立ち上がった。
もう、己の脚では、なかった。
その巨体が、森を割って、南へ駆け出す。
「奴らに、この芸術品を倒せると思うか?」
支配の声が、遠くの器へ、命じた。
「グロストよ、なんとかしろ」
高笑いと共に、白いローブは消えた。
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異変は、昼過ぎに起きた。
悲鳴が、街の北から、上がった。
人の波が、こちらへ逃げてくる。何かから。
地が揺れた。
建物の角を曲がって、それは現れた。
影が、通りを、呑んだ。
見上げる。
まず、角だった。
鹿の角を幾重にも枝分かれさせ、長く引き伸ばしたような、巨大な枝角。それが、家々の屋根を越えて、左右へ、枝を広げている。空を、裂くように。
その下に、黒い剛毛の巨体。家の二階に、頭が届く。
熊だった。だが、あまりにも、大きい。
額に、紋様が、光っていた。
「……でかすぎる」
ガルドが剣を抜いた。
「ウルサリオス……!」
アゼルが、その角を見て、声を上げた。
「書物で見た。森の王と、呼ばれる獣だ」
熊が咆哮した。空気が震えた。
屋台を玩具のように吹き飛ばし、こちらの方向に突進してくる。
「止まって!」
リリアナの声が、ウルサリオスを、中から揺さぶる。
だが、突進は止まらない。
ガルドが割って入った。角を掻き分け、額の紋様を目掛け、切りつける。
突進は、殺した。だが、切れたのは僅かな毛と皮だけ。
ガルドは、余勢に弾き飛ばされた。
アゼルは、ガルドへ治癒の光を飛ばす。
光が、傷へ届く。
だが――閉じ方が、違った。
裂けた肉が、埋まるのではなく、詰まっていく。皮膚が、澱んだ冷たさとともに、金属のように硬くなる。
「……ぐ、ぁ」
治るのに、痛い。
いや――治るほど、痛い。
アゼルが、自分の手を見た。いつもと、同じに、祈った。なのに。
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――痛むだろう。すまないね
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誰にも、聞こえなかった。
リリアナは、地面に左手を置く。青い陽炎が、熊の足元へ走る。
冷たい。生き物の温度が、ない。
「ダメ! 獣じゃない、魔物よ!」
術式を組んだ指先に、黒い稲妻が集う。これまで、幾多の魔物を貫いてきた彼女の一撃。
放った。
その手前で、空気が、ねじれた。
稲妻が、進路を失う。胸を逸れ、あらぬ方へ曲がり、家の壁を抉った。
「……曲がった?」
当たらない。狙うほど、逸れていく。
それは、歪曲の力。
まるで、遠くで誰かが、煩わしげに手を払ったかのように。
リリアナの顔が強張った。
ガルドが、叫ぶ。
「アゼル! リリアナを!」
アゼルは、リリアナを連れて引いた。
ガルドが、斬りつける。今度は、剛毛を裂き、肉に届いた。並の獣なら、ひるむ深さ。
だが、熊は瞬きもしない。
裂かれたそばから、また、前脚が振り上がる。
ガルドは、盾で受け止めた。
足が、地面に、めり込んだ。
普段なら、そのまま潰されていた。回復の澱みが、ガルドに力を与えていた。
幾度となく、切りつける。
角が邪魔で、皮膚の向こうを貫けない。
ガルドの息が、上がる。
その焦りが、一瞬の隙を生んだ。
熊の前脚。
避けきれない。
「ガルドさん!」
熊の動きが、唐突に止まった。
巨体が硬直する。
黒い何かが。熊の首筋に。
炎だった。黒い、炎の刃。光を飲み込むように燃えていた。それが熊の首に、突き立てられた。
その柄を握る、影。
「ヴァル!」
リリアナが、叫んだ。
ヴァルは、もう一方の手で短剣を抜く。炎を纏わせる。いつもの炎の刃。
動きを止めた熊の額へ。
跳んだ。
炎の短剣が、紋様を断ち割った。
ウルサリオスが、崩れ落ちた。
地響きが、街を揺らした。
ヴァルは、熊から黒い炎の剣を抜いた。だがそこに、傷はなかった。
「……遅い」
ガルドが、肩で息をしながら、言った。
「急いだ方だ」
ヴァルが、口の端を上げた。
一ヶ月ぶりの軽口だった。
「ヴァルさん、その剣……」
アゼルが、目を丸くしていた。光を喰う、黒い炎の剣を。
「野暮用の、土産だ」
ヴァルは、それだけ言って、柄を腰の革袋に納めた。
紋様から、欠片が舞い上がる。
欠片が、四人の前で止まり、弾けた。
それは、ガルドの、遠い記憶。
◇
若い男がいた。
ガルドだった。
鎧をまとっていない。ただの青年だった。
その隣に、女がいた。
笑っていた。
澄んだ笑顔だった。
海辺だった。夕暮れ。
青年のガルドが、何か言いあぐねている。
何度も、口を開きかけては、やめる。
女が笑って、急かす。
ガルドが意を決して、手を差し出した。
その手のひらに、細い指輪。
女の笑みが、止まった。
それから、ゆっくりと、両手で、口を覆った。
目に、みるみる、涙が盛り上がる。
何度も、何度も、頷いた。
ガルドが、女の左手を、そっと取った。
その薬指に、指輪をはめる。
ぴたり、と。誂えたように、収まった。
場面が移る。
小さな家。二人の前に、女の母がいた。――あのゴアの、屋台の老婆。まだ、ずっと若い頃の。
ガルドが、頭を下げた。
女が、母に左手を差し出す。指輪を見せる。
母は、しばらく、その指輪を見ていた。
それから――泣き笑いの、顔で、二人を、抱き寄せた。
三人が、ひとつになった。
幸せが、そこにあった。
壊れることなど、誰も、知らない、幸せが。
◇
光景が、消えた。
ムンバイの雑踏。
立ち尽くすガルド。
左手の小指の指輪。
リリアナが、ガルドの傍に立った。何も言えなかった。
アゼルも。
そして、ヴァルも。
四人は、しばらく、口を開かなかった。
夕暮れの海が、光っていた。
あの日と、同じ色で。




