表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女神と、悪魔と ― ― 過去にある未来 ― ―  作者: 一ノ瀬 俊晶


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/48

第二十五話 ―― 前へ前へ ――

 ムンバイは、大きな街だった。

 海に面した、商いの街。石造りの建物が、何層にも積み重なり、人と荷車と潮の匂いとが、絶え間なく行き交っていた。

 ガルドたちは、この街でヴァルを待っていた。


 欠片の在り処は、北の森を示していた。しかし、欠片を集める理由は、なくなっていた。


 その夜、リリアナは、眠れなかった。


 宿の窓から、ムンバイの灯りが見えた。潮騒に、遠い人の声が混じる。

 部屋には、寝台が、二つ。

 もう一つは、空のままだった。ヴァルがいれば、そこで眠っているはずの寝台。

 壁の向こうから、かすかに、アゼルの寝言が聞こえた気がした。何も知らない、暢気な声で。


 リリアナは、毛布の中で、膝を抱えた。


 ――その少女の名は、リシケシ村の、リリアナ。


 悪魔の声が、まだ、耳に残っている。

 私の名前。私の村。私の旅。ぜんぶ、知られていた。ぜんぶ、掌の上だった。

 怖い、と思った。

 今さら、はっきりと、怖かった。


 逃げたい、とも思った。

 計画も、欠片も、ぜんぶ放り出して。四人で、ただ、旅を続けたい。知らない街で、知らない料理を食べて、笑って。どこにも、着かなくていい。ずっと、道の上にいたい。

 そう思ってから、空の寝台が、目に入った。

 ヴァルは今ごろ、一人で、南の果てにいる。

 ……ごめん。

 毛布を、目の深さまで、引き上げた。


 それに。

 考えまいとしているのに、夜は、いつも同じ場所へ、指を伸ばしてくる。

 おかしい、ということ。本当は、ずっと、分かっている。

 読めるはずのない石碑が、読める。習ってもいない術式が、勝手に湧く。力が、際限なく、伸びていく。

 まるで、誰かのものを、借りているみたいに。


 ふいに、父ガレンの声が、よみがえった。

 幼い日。剣を研ぐ手を止めて、話してくれた。私が、どこで生まれたのかを。

 ――そこに、お前がいた。赤ん坊が、たった一人。魔物に囲まれて。なのに、傷ひとつ、なかった。

 あの時は、ただの、不思議な昔話だった。

 今は、違う。

 どうして。

 私は――


 そこで、やめた。

 いつも、そこで、やめる。

 その先を考えたら、もう、この毛布の温かさに、戻ってこられない気がした。


 寝返りを、打つ。

 ペンダントの蝶を、握る。

 明日も、普通の顔をしよう。アゼルの軽口に、笑おう。

 それだけを、決めて。

 リリアナは、目を、閉じた。


 眠れたのは、明け方だった。



 禍いのモルボスが、口を開いた。

「力の満ちが、遅い。オクラス。何が、起きている」


「マイソールを出て以降、三人の歩みが、落ちている」

 オクラスが、答えた。見えるものを、そのまま。

「だが、不審な動きは、ない」


 歪曲のデミウルゴスが、図から顔も上げず、続けた。

「封印には、もう少し、力がいる。あと少しで、いいんだ」


「術式は」

 モルボスが、問う。


「まだだ。穴が、一つ。たった一つ、塞がらない。……美しくない。これでは、完成とは、言えん」

 耳の刺繍が、苛立たしげに、震えた。

 あと、一つ。それさえ埋まれば、図は完成する。

 女神の力は、永遠に、こちらのものになる。

 たった、一つ。


「では、こちらから、欠片を動かす」

 モルボスが、決めた。


 支配、続いて歪曲が、深淵から消えた。


-----


 北の森に、ふたつの白いローブが、降り立った。

 木々が、ざわめく。

 その奥に、それは、いた。額に紋様を宿した、巨大な獣。森の王と、人が呼ぶもの。


 獣が、牙を剥いた。低く、唸る。縄張りを侵した、ものへ。

 ヴォルガスは、歩みを、止めない。

 ただ、片手を、差し伸べる。


「伏せろ」


 唸りが、途切れた。


 巨体が、ぐらりと傾ぎ、前脚が、地に折れる。

 森の王が、ローブの前に、頭を垂れた。

 月のない、その目から、意志の光が、すうっと、失せていく。


「お前を美しくしてやろう」

 デミウルゴスが、両拳を、森の王に向ける。


 目は赤く濁り、狂気に染まる。身体から、獣としての生気が抜けていった。


「ゆけ。南の街だ。娘の、いる方へ」

 獣が、立ち上がった。

 もう、己の脚では、なかった。

 その巨体が、森を割って、南へ駆け出す。


「奴らに、この芸術品を倒せると思うか?」

 支配の声が、遠くの器へ、命じた。

「グロストよ、なんとかしろ」

 高笑いと共に、白いローブは消えた。



-----


 異変は、昼過ぎに起きた。


 悲鳴が、街の北から、上がった。

 人の波が、こちらへ逃げてくる。何かから。

 地が揺れた。

 建物の角を曲がって、それは現れた。

 影が、通りを、呑んだ。

 見上げる。


 まず、角だった。


 鹿の角を幾重にも枝分かれさせ、長く引き伸ばしたような、巨大な枝角。それが、家々の屋根を越えて、左右へ、枝を広げている。空を、裂くように。

 その下に、黒い剛毛の巨体。家の二階に、頭が届く。

 熊だった。だが、あまりにも、大きい。

 額に、紋様が、光っていた。


「……でかすぎる」

 ガルドが剣を抜いた。

「ウルサリオス……!」

 アゼルが、その角を見て、声を上げた。

「書物で見た。森の王と、呼ばれる獣だ」


 熊が咆哮した。空気が震えた。

 屋台を玩具のように吹き飛ばし、こちらの方向に突進してくる。


「止まって!」

 リリアナの声が、ウルサリオスを、中から揺さぶる。

 だが、突進は止まらない。


 ガルドが割って入った。角を掻き分け、額の紋様を目掛け、切りつける。

 突進は、殺した。だが、切れたのは僅かな毛と皮だけ。

 ガルドは、余勢に弾き飛ばされた。


 アゼルは、ガルドへ治癒の光を飛ばす。

 光が、傷へ届く。

 だが――閉じ方が、違った。

 裂けた肉が、埋まるのではなく、詰まっていく。皮膚が、澱んだ冷たさとともに、金属のように硬くなる。

「……ぐ、ぁ」

 治るのに、痛い。

 いや――治るほど、痛い。

 アゼルが、自分の手を見た。いつもと、同じに、祈った。なのに。


 ――痛むだろう。すまないね

 誰にも、聞こえなかった。


 リリアナは、地面に左手を置く。青い陽炎が、熊の足元へ走る。

 冷たい。生き物の温度が、ない。


「ダメ! 獣じゃない、魔物よ!」


 術式を組んだ指先に、黒い稲妻が集う。これまで、幾多の魔物を貫いてきた彼女の一撃。


 放った。


 その手前で、空気が、ねじれた。

 稲妻が、進路を失う。胸を逸れ、あらぬ方へ曲がり、家の壁を抉った。

「……曲がった?」

 当たらない。狙うほど、逸れていく。

 それは、歪曲の力。

 まるで、遠くで誰かが、煩わしげに手を払ったかのように。


 リリアナの顔が強張った。


 ガルドが、叫ぶ。

「アゼル! リリアナを!」

 アゼルは、リリアナを連れて引いた。


 ガルドが、斬りつける。今度は、剛毛を裂き、肉に届いた。並の獣なら、ひるむ深さ。

 だが、熊は瞬きもしない。

 裂かれたそばから、また、前脚が振り上がる。


 ガルドは、盾で受け止めた。

 足が、地面に、めり込んだ。

 普段なら、そのまま潰されていた。回復の澱みが、ガルドに力を与えていた。


 幾度となく、切りつける。

 角が邪魔で、皮膚の向こうを貫けない。

 ガルドの息が、上がる。


 その焦りが、一瞬の隙を生んだ。

 熊の前脚。

 避けきれない。


「ガルドさん!」


 熊の動きが、唐突に止まった。

 巨体が硬直する。

 黒い何かが。熊の首筋に。

 炎だった。黒い、炎の刃。光を飲み込むように燃えていた。それが熊の首に、突き立てられた。

 その柄を握る、影。

「ヴァル!」

 リリアナが、叫んだ。


 ヴァルは、もう一方の手で短剣を抜く。炎を纏わせる。いつもの炎の刃。

 動きを止めた熊の額へ。

 跳んだ。

 炎の短剣が、紋様を断ち割った。


 ウルサリオスが、崩れ落ちた。

 地響きが、街を揺らした。


 ヴァルは、熊から黒い炎の剣を抜いた。だがそこに、傷はなかった。


「……遅い」

 ガルドが、肩で息をしながら、言った。

「急いだ方だ」

 ヴァルが、口の端を上げた。

 一ヶ月ぶりの軽口だった。


「ヴァルさん、その剣……」

 アゼルが、目を丸くしていた。光を喰う、黒い炎の剣を。

「野暮用の、土産だ」

 ヴァルは、それだけ言って、柄を腰の革袋に納めた。


 紋様から、欠片が舞い上がる。

 欠片が、四人の前で止まり、弾けた。


 それは、ガルドの、遠い記憶。



 若い男がいた。

 ガルドだった。

 鎧をまとっていない。ただの青年だった。


 その隣に、女がいた。

 笑っていた。

 澄んだ笑顔だった。


 海辺だった。夕暮れ。

 青年のガルドが、何か言いあぐねている。

 何度も、口を開きかけては、やめる。

 女が笑って、急かす。

 ガルドが意を決して、手を差し出した。


 その手のひらに、細い指輪。


 女の笑みが、止まった。

 それから、ゆっくりと、両手で、口を覆った。

 目に、みるみる、涙が盛り上がる。

 何度も、何度も、頷いた。


 ガルドが、女の左手を、そっと取った。

 その薬指に、指輪をはめる。


 ぴたり、と。誂えたように、収まった。


 場面が移る。


 小さな家。二人の前に、女の母がいた。――あのゴアの、屋台の老婆。まだ、ずっと若い頃の。


 ガルドが、頭を下げた。

 女が、母に左手を差し出す。指輪を見せる。

 

 母は、しばらく、その指輪を見ていた。

 それから――泣き笑いの、顔で、二人を、抱き寄せた。


 三人が、ひとつになった。

 幸せが、そこにあった。


 壊れることなど、誰も、知らない、幸せが。



 光景が、消えた。


 ムンバイの雑踏。

 立ち尽くすガルド。

 左手の小指の指輪。


 リリアナが、ガルドの傍に立った。何も言えなかった。

 アゼルも。

 そして、ヴァルも。

 四人は、しばらく、口を開かなかった。


 夕暮れの海が、光っていた。

 あの日と、同じ色で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ